980605


沖縄行進に参加して

やった! 人間の鎖で普天間包囲

沖縄に続いて闘うぞ

大阪府  渡辺 好貴


 私は、五月十五日から十七日にかけて行われた沖縄平和行進、普天間基地包囲行動に、全国から結集したたくさんの青年労働者や市民と一緒に参加してきました。

炎天下キロを歩きぬく

 私のコースは西コースです。十五日朝九時、海上ヘリポート建設問題で揺れる名護市の市役所で出発式を行い、三日間の平和行進がスタートしました。

 出発時には雨も強かったのですが、しばらくして雨も止み、気温もどんどん上がってきて、沖縄の梅雨独特の蒸し暑さが私たちを襲ってきました。

 この日は初日ということもあり、参加した人びとは気負い気味で、また、沖縄の暑さの怖さも知らず、歩くペースはどんどん上がっていきます。吹き出る汗をぬぐいながら、元気にシュプレヒコールをあげて行進しました。

 三日間で最長の二十八キロのコースでしたが、さすがに午後、恩納村役場に到着し、休憩をとったころには、行進団の多くは疲労のピークを迎えていました。

 でも、そんな時に役場の人たち、沿道や小学校の児童たちから熱烈な声援を受けると、元気を取り戻します。また、給水所のお茶のおいしかったこと。

 初日の二十八キロを歩ききった時の満足感は、今も忘れることができません。

温かい声援に励まされて

 二日目は恩納村南部から読谷村を経て、嘉手納町に至る二十五キロのコースです。

 このコースは、有名な象のオリやパラシュート降下訓練で有名な読谷補助飛行場、トリイ通信基地などの集中する地域を歩きました。

 そんな基地の多い読谷村ですが、歴史的に、基地撤去の先進的な闘いを村あげて繰り広げてきた地域です。

 そのことは、村民の私たちへの声援と激励によって気づきます。また読谷補助飛行場の敷地内・滑走路脇に新しくできた村役場は、そのことの一つの象徴です。

 走り寄ってきてジュースとお茶を差し入れしてくれる商店のおばさん、小さな子どもを背負いながらベランダから手を振るお母さんたち、クラブ活動を中断して声援してくれる高校生たち。いくつもこんな光景に出会いました。

 この日は、直接米軍基地の姿を目の当たりにし、基地の前での抗議行動も数多く行いました。本土から参加した若い労組の仲間は、交代で初めてのシュプレヒコールをあげます。初々しいシュプレヒコールに「がんばれ!」の声が飛ぶのです。

爆音を耳にひたすら歩く

 三日目。いよいよ平和行進の最終日。参加者も日々膨らみ、私たちのコースの参加者は千人をゆうに超すこととなります。最後の十二キロと、午後からは広大な普天間基地を取り囲む「人間の鎖」による包囲行動の日です。

 この日は朝から晴天で、三日間で一番の行進「日和?」、南国の強い日差しが私たちに試練を与えます。

 東洋最大の嘉手納飛行場のフェンス沿いをひたすら歩きます。この基地は、嘉手納町の全面積の八三%を占め、町の発展の大きな障害となっています。

 行進している間にも、米軍機が離発着し、その爆音のすごさも体験することとなりました。休憩所では、嘉手納基地爆音訴訟を闘う人びとが迎えてくれ、闘いの歴史も学ぶことができました。

 そして北谷町へ。ここの町役場もこの四月、キャンプ桑江敷地内に新庁舎を建設しました。闘いによって勝ちとった新庁舎や、基地返還地を再開発し発展するハンビー・タウンなどを横目で見ながら、私たちは最終地点・普天間基地の正面ゲートをめざします。

 このころになると、足にマメをつくり、足を引きづりながら歩く仲間も多く見受けられるようになりました。

 そんな仲間も含めて、最後まで歩き通すことができたのです。

本土での幅広い運動を

 午後二時、普天間基地を一万六千人が取り囲みました。号令の合図とともに三度「人間の鎖」で包囲。包囲が成功するや、これを祝ってくれるサンパン・シャワーのようなスコールが私たちの疲労と暑さを和らげてくれたのです。

 今回の平和行進と包囲行動で基地があるがゆえに苦悩し、闘う沖縄の人びとや本土で沖縄に心を寄せる人びとと出会うことができました。また、大衆行動の持つ力強さもあらためて感じることとなりました。

 沖縄の人たちは闘い続けています。沖縄の闘う人に負けることなく、本土でも安保破棄、新ガイドライン反対の幅広い運動を進めていきたいと思います。

 みなさんもぜひ機会があれば、平和行進に参加してください。


Copyright(C) The Workers' Press 1996, 1997,1998