消費の低迷、銀行からの貸し渋りで中小企業の倒産がはげしく、失業はすさまじい。不況の深刻さから、各方面で「昭和恐慌」との類似性も言われるようになっている。
こんなおり、私は昭和初期の製糸女工たちの哀史(あいし)と闘いを描いた本「ああ野麦峠」(山本茂実著)に出会った。かつての労働者の闘いを振り返ることは、激動する現在に生きるわれわれにも重要だと感じた。
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一九二七年八月二十八日、全日本製糸労組諏訪第十五支部の五人の工員は、労組加入の自由、賃金の引き上げなどを求める嘆願書を会社に提示した。しかし会社は、この嘆願書に見向きもしなかった。
怒った女工たちは千数百人を集めて支部臨時大会を開いた。大会では「私たちは奴隷ではない」、「募集時の契約通りの賃金を支払ってください」、「人間の食べものを与えてください」という声が飛び交い、十七歳の女工は「この最低限の嘆願を受け入れてくれるまでは、死んでも引き下がりません」と涙を浮かべて訴えた。
こうして労働者は、八月三十日午前十時を期して、十八日間におよぶストライキに突入した。
争議には他工場の女工、全国の労働者から激励と救援物資などの支援が寄せられた。争議は一工場を超え、製糸業者を震え上がらせた。
「岡谷四万の女工、長野県下十五万、全国三十五万の女工を救う」という闘いの意思は、その後の各地の闘いへと受け継がれていった。
彼女らは、闘いのなかでいつも次のような労働歌を口ずさみ、自らを鼓舞(こぶ)し、団結を誓い合った。
搾取のもとに姉は逝き
地下にて呪(のろ)う声を 聞く
いたわし父母は貧に泣く
この不合理は何たるぞ
かくまでわれら働けど
製糸はなおも虐げぬ
悲しみ多き女子(おみなご)や
されどわれらに正義あり
若き血潮を犠牲にし
真心こめてつむ生糸(いと)は
みな貴人や富者の
栄華を飾るために消ゆ
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