980415


やっぱ好きやねん

北京と南京(下)

ひまな ぼんぺい


 南京に行くので、北京空港の国内線ロビーに黄暁憲の車で送ってもらったのだが、同行の皆さんとの約束よりも三十分も前に着いてしまった。車をとめるところもなく、彼らと別れてブラブラする。

 高校生くらいの女の子のグループがいたので声をかけた。日本でこのようなことはできない。僕にとって、外国語である中国語が緩衝材になっているのである。彼女たちは「春節を北京で過ごすために広東から来たの」と言う。中国では春節をはさむこの時期に民族の大移動がある。以前は列車か長距離バスでの移動がほとんどだったが、今では飛行機を利用する人がずいぶん増えたそうだ。

 南京へ行くのは二度目だ。前回は北京から列車に乗り、早朝に南京長江大橋を渡った。

 中国のどこへ行くのにも気が楽ということはない。どこに行っても日本の侵略の爪痕(つめあと)を深く意識せざるをえないからである。

 数年前、平頂山万人坑を訪れた後、瀋陽のホテルのバーで一人飲んでいたそばで、スペイン人のグループが陽気に騒いでいた。彼らはいいなと思う。日本を二度と侵略しない国に改造する責務が僕らの世代に引き継がれていて、それをなしとげていない以上、ひっそりと考え込まなければならないときもある。

 それでも、南京のホテルで夕食をすませ、同行の人たちと街に出た。

 食堂にでも入って軽く飲むことにし、通訳のJさんもいっしょだったが「あなたの今日の仕事は終わったんだから」と、僕が夜のガイドをかってでた。

 裏道に入って二、三軒目で適当な店が見つかった。

 ビールと二鍋頭のポケット瓶をとり、豆苗など腹の膨れないようなものを三品注文すると、店の女の子が「一人一品でないと困る」と言う。仕方なく安いものを頼む。ところが一品目が出てきて驚いた。一人に一皿ずつ盛られているのだ。皆さんも「おいおい、どうなってるの」と僕をにらむ。Jさんは新米ガイドのお手並み拝見とばかり、笑ってみている。

 僕は必死である。ホテルで食事をすませて来たからこんなに食べきれない、とにかく減らしてくれ、その分お酒はもう少し飲むから、と頼む。それを見ていた食事中の男性が席を立って交渉に割り込んできた。客だか店の関係者だかわからないが、彼のとりなしで三品で許してもらった。

 やれやれと飲み始めると、またひと波乱。四品目が出てきたのだ。再び交渉を始めると、今度は別の男性が割り込んできた。コックさんの説明によると、さっきの交渉が終わった時点ですでに四品目に火を通し始めていたので、これは仕方がないのだという。

 ひとしきり食べて飲んで、カラオケも少しやって、残ったおかずを持ち帰るパックまでもらった。会計を頼む。

 金額を書いた紙切れを見て、まいったなと思った。全部で八十六元、一人あたり十元(百六十円)にも満たないのである。こんなことで二度まで大騒ぎして、彼女はわれわれのことをどんなふうに思って見ていたのだろうか。

 恥ずかしくてたまらず、代金を払うとき、「中国の人には戦争で非常な迷惑をかけ、特に南京の人にはひどいことをしたのに、お騒がせして申し訳ない」と謝った。奇妙な謝り方だと今では思うが、ともかくそのような意味のことを言った。すると店の子は「あれは歴史上のことですから」と笑顔を見せ、お釣りをくれたのだった。

 翌日、南京大虐殺記念館を見学し、僕は『侵華日軍南京大屠殺』というウィンドウズ版のCD―ROMを買った。


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