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今年は日中平和友好条約20周年

揺るがぬ日中友好関係を

国労組合員  郡山 修二


 昨年は、日中戦争ぼっ発六十周年、南京大虐殺六十カ年、日中国交正常化二十五周年という、日本と中国にとってあらゆる意味で重大な年でした。それは、過去を直視し、国交正常化の意味を問い直し、不動の日中友好を確立する年でした。
 今年は日中平和友好条約二十周年であり、それを記念して、やや古くなりましたが、昨年の取り組みを紹介します。
 このような時、私は「南京大虐殺六十カ年大阪実行委員会」に参加しました。取り組みは、一年間かけてのロングランで、その間に撫順の戦犯管理所の所長を日本に招いての学習会や、南京での国際シンポジウム、日中高校生による現地調査などが行われ、十月には「情報ホットライン」も取り組みました。
 十二月十三、十四日には「メモリアル南京大阪集会」が行われ、この成功のために、私は職場で労組を超えた協力をもらい、また地域では労組、民主団体、政党を回り、取り組みに協力してもらいました。また、ガイドライン反対の集会などでビラを配り、チケットを売りました。実行委員会の任務として十三日のデモコースの確定、申請の係として数種類のコースをつくり、そして何度も歩き、時間、人の流れを調査し、警察への申請をしました。
 十二月十三日は「音楽と追悼の夕べ」ということで元日本兵士の証言として「南京での日本軍の大虐殺」の様子が『カーテンごし』に語られました。カーテンごしにしか語れない日本の現状について、翌日のシンポジウムで金子マーチンさんは「日本は民主主義国ではない」と言われました。
 また、音楽の夕べということで、在日中国人の音楽家による古箏(そう)、二胡(こ)の演奏、声楽などで虐殺された中国人の人びとを追悼しました。この日は、在日中国人も多数参加しました。そして集会の後、中国でつくったちょうちんを下げて「南京大虐殺を忘れないぞ!」「アジアと敵対するガイドライン反対!」などのシュプレヒコールを叫びながら二百五十人ぐらいでデモ行進し、多くの人びとに今日十三日が南京大虐殺六十カ年であることを訴えました。
 十三日は、人の入りが会場の六割くらいで二日目の入場を心配していました。十四日は三百冊くらいのパンフで足りるだろうと準備していました。二日目開場と同時に人が続々と来て、追加のイスも足らなくなり、会場内の壁にぐるりと人が立ち、超満員となりました。

 私は今まで、いくつもの集会の受付をしてきましたが、こんなに人が集まった集会は初めてでした。それも、十代から七十代まで幅広く、それも半数近くが女性の参加でした。
 そして、集会の数日後の総括会議では、在日中国人から「中国人民にとっては日本からの初めての『友好と連帯』のメッセージであり、十三日のデモは大変よかった、本当にうれしかった」と言われました。また、中国のマスコミにも人民日報、解放軍報などで、大々的に日本での集会の様子が伝えられました。
 また、参加者の意見として「平和を得るために、侵略戦争の加害の歴史を誠実に受け止めることが大切だ」「今回の取り組みは、日中平和友好の貴重な一里塚」という意見や、実行委員会に対する激励やお礼も多くあり、私たちはすごいことをしたのだなと思っています。
 今、「自由主義史観」や「南京大虐殺は中国人の作り事」などと公然という人が多く存在しています。今回の取り組みがこれらに対する歯止めの一歩となったと思っています。
 アジアの共生を目指し、日本の平和のためにも過去の歴史を直視し、反動化を許さない取り組みの強化が今後とも必要と思っています。


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