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大企業との格差に驚き
―零細企業体験記―(上)
大門 直哉(兵庫県尼崎市)
尼崎市の統計書によれば、尼崎市の製造業には約五万八千人の労働者が働いている。そのうち約一万人は、四〜二十人未満の零細企業(千三百、全事業所数の七六%)である。しかし、その職場環境は劣悪で、労働者の賃金、労働時間などは驚嘆にあたいする。
私は、最近、こうした零細企業で働き、その現実を実感することになった。それとともに薄れかけていた『階級的怒り』がはっきりとよみがえってきた。これはその体験記である。
私は、一カ月間のクロネコヤマト宅急便のアルバイトを終え、次の職探しに尼崎の職安(職業安定所)を訪ねた。「平成の大不況」を反映してか、職安のロビーは、老若男女の失業者でごったがえしていた。
「初めてなんですけど、仕事をさがしにきたんですが…」と、私は、窓口に行き職安の職員に相談した。「初めてですか、そしたらあそこの求人の棚に並んでいるファイルをみて、いいところがあったら持ってきてください」と、そっけない。棚の方に目を向けると、何人もの失業者が、あちこちでファイルを広げ、真剣な眼差しで職を探している。結構、若い労働者や女性労働者も多い。
面 接
私は職安の紹介状と履歴書を持って、三日後に大北工作所を訪ねた。従業員は十一人、職種は汎用旋盤工、年齢制限は四十五歳位まで。基本給は二十五〜三十万円、休日は日、祝、第一土曜日であった。
工場の二階に上がり、ドアをノックした。開けると狭い事務所に、丸顔のおっさん(光山専務)が、ニコニコして私を待っていた。「あいにく社長は出かけている」とのことで、その専務が対応した。
私は専務に、率直に四十九歳であること、旋盤の経験は十年あるが、二十年前であること、汎用(はんよう)旋盤の国家検定二級も取得していることなどの話をしてみた。それに、「少し教えてもらえば、一、二カ月で結構やれると思う」とつけ加えた。専務は、私が大企業で十三年間働いていたことに感心し、いとも簡単に「時給千五百円、一カ月間は試用期間という条件で採用したい」という。ただ、試用期間中は各種保険は適用外、作業服の支給もない、残業手当もつかない。しかし、時給が千五百円ということで、とりあえず盆明けから勤めるとの約束をした。
面接を終え、私はちょっとした興奮を覚えていた。私にとって、現場労働は二十年ぶりで、どれだけ旋盤を使えるのかという多少の不安はあったものの、むしろ旋盤工として『やれる』という何か自信のような気持ちがわいてきた。
3K職場へ
盆明けの朝、私は狭い食堂兼ロッカー室で作業服(シャツにジーパン姿)に着替え、安全靴(これは特別に支給された)のひもを絞め、若干緊張気味に専務の案内で工場のドアをくぐった。
それは驚きだった。大企業で働いた経験のあった私にとっては、零細企業の現場は異様に映った。とにかく狭く、暗い。通路には加工前の材料が散乱し、見苦しい。現場のにおいはいやではないが、工場独特のにおいが満ちている。それに古いボール盤、フライス盤、マシーン、汎用旋盤、ケガキ台などが無造作に据え付けられ、数人の労働者がせわしなく働いている。
私が使うという六尺旋盤に案内されたときは、なお驚きだった。足元には材料が転がり、クーラーの水がたまっている。作業台には、バイト(切削刃)が無造作におかれ、エロ本が積まれている。旋盤工が最も大切にしなければならないマイクロメーター、シリンダーゲージなどの測定具はさび、それもそろっていない。『えーこんなところで…』と少々ゾーとはしたものの、とにかく掃除から始めた。
そして二十年ぶりに、おそるおそる旋盤の操作を行い、材料を加工することになった。
旋盤作業は一つ間違えば重大災害にながりかねない。だが、『安全』の言葉は誰からも聞かれずじまいだった。大企業から単価を切り下げられ、納期に追われる零細企業。労働者にとっては、「一にスピード、二に正確さ」(熟練労働者の話)が常に要求され、「一に安全、二に生産」などは大企業の標語でしかないようだ。自分の安全は自分で守る以外にない。まさに3K職場だ。
一日の仕事が終わると、食堂兼ロッカー室で冷蔵庫に冷えている缶ビールを飲みながら雑談がはじまる。汗をかき『ゴクン』と飲み干すビールの味はまた格別である。
20年ぶりに勘を取り戻す
数日後のことである。その雑談の席で、私は一人の労働者から思いがけない攻撃をあびることになった。町工場を腕一つで渡り歩いてきた熟練労働者(NCのフライス工)の金田さん(五十六歳)である。突然「あんた素人とちゃうか。仕事をみていたが基本ができてへん、西さん(親方)に『青砥石(といし)と赤砥石のどれを使うのか』なんて、聞いたらしいが、なにが十年も旋盤を使うてたや。ウソ言ったらあかんわ。社長はだまされても、職人はだまされへんで」などと、まるで私が何か悪いことでもしたようにまくしたてられてしまった。冷水を頭からぶっかけられたようで、旋盤工としての自信も吹っ飛んでしまった。
なんせ二十年前といえば二昔である。工具の名称も忘れているものもあるし、加工方法もすっと出てこない。作業にも時間がかかる。反論のすべもなく、私はただただ聞いているしかなかった。
それからというものは、金田さんはあいさつもせず、ろくに口も聞いてくれない。後でわかったことだが仕事を出来る者とは対等に話すが、そうでないものには別だそうだ。ときには作業中に「早く削れ、送りが遅い、何しとるんや」など、ば声を浴びることすらあった。その度に気分も重くなり、「金田が休めばいいのに」との思いもつのるようになっていた。
社長に足りない工具の注文をすれば、新しい工具は西さん(親方)が取り、使い古しの工具が私に回される。「仕事を教えてもらいたけば親方の切りこ(削った金属くず)掃除をしろ」(金田)と言われ、何度か親方の切りこの掃除もさせられた。まるで徒弟制度だ。大企業の経験しかなかった私には屈辱的だったが、なんとか仕事ができるまでは、と我慢した。
ある日、「ぺけ」(不良品。関東ではおシャカという)をたて続けに出してしまった。「そんなことだったら社長に言ってやめてもらうぞ。いまはまじめに働いてるからいいとしても」と西さんにしかられ、完全な自信喪失となった。「ねじ切り」や「百分の一ミリ」の精度を要求される作業を考えると、夜も眠れないときがあった。
それでも、半月ほどがたつと、十六歳から身体で覚えた旋盤作業の勘を取り戻し、しだいに作業も早くなってきた。ほとんどの作業は、一回クリアすれば苦にならず、鼻歌混じりにハンドルを握れるようになった。
それにつれ私に対する現場労働者の態度にも変化が現れるようになった。親方がそっとゲージや工具を作業台に置いてくれたり、新しいバイトを注文してくれたり、親切に仕事を教えてくれるようになった。金田さんも、私を「だいちゃん」と呼ぶようになり、仕事への協力もしてくれるようになった。「芸は身を助ける」ということか。
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