また、仲間が殺された。
「機械の下で倒れていたそうだ、頭を打って死んでいたそうだ…」作業前の雑談で誰かが言いだした。隣の工場で先週末に事故があったらしいが誰も正確なことは知らされていない。みんなで勝手なことを言っていると組長がやって来た。
「おい!その話ならさっき事務所で課長たちが話していたから知ってるぞ。自殺か事故か調査中だそうだ…」と得意気にしゃべりかけてくる。そして、始業のチャイムが鳴って、いつもの地獄だ。
ところが翌日、組長が作業の十分も前に皆を集め「昨日の話は訂正だ。あれは労災だったぞ…」と改めて説明しだした。鍛造工場のAさん(四十二歳―班長)はコンベアの流れの異常に気づき、修理しようとしたところコンベアと機械の間にはさまれ死んだというのだ。このような死亡事故は春にもあったばかりだ。
この工場ではいかなる理由があろうとも、生産減につながるラインストップは許されない。万が一、止めたりすれば職場の連帯責任として賃金がカットされるだけでなく、「再発防止対策書」、「始末書」を書くに当たっては職制からジクジクいやがらせを受けさらしものにされるのだ。
班長や組長など末端職制はその責任をすべて押しつけられる立場にあり、コンベアを止めずに機械を修理したり、製品を直したりせざるを得ないのである。これまでの労災で死亡したのは殆どが班長と組長であることはその証左である。
事故に際し、救急車がサイレンを鳴らさないのも、この工場のえげつなさを証明している。サイレンを鳴らせば他の作業者の気が散って作業の能率が落ち、また集中力がなくなり作業ミスやケガの原因になるというのだ。だから、守衛の運転する社内救急車は工場の外に出てからサイレンを鳴らすというのである。
例によって、重役の「安全メッセージ」が配付された。「危険と思ったら、迷わずラインを止めよ」とある。組長がその部分を読み上げたとき、思わずみんなで顔を上げ、見合わせた。どの顔も口が半開きで、目玉が真ん中に寄っていた。あきれて物が言えない顔とはこんな顔なんだろうと思う。
それにしても、労働組合は何だ。仲間が殺されたというのに、抗議するどころか就業時間中の安全点検もミーティングも要求していない。彼らがやったのは組合ニュースに六行の「ご冥福をお祈りします」だけだ。これでは、また仲間が第二、第三のAさんにされてしまう。
働くものが主人公の社会が来るまでは、私の怒りは収まらない。
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