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 最後の日、小さな飲み屋は貸切りになった

 俺の<強制配転>日誌 (4)

 飯岡 徹(上野郵便局)


―最後の日―
八月三十日(土)

 荒川局での最後の日が来た。泣いても笑っても今日が最後だ。夜勤で昼の十二時四十五分に出勤。いつものように仕事が始まった。転勤前だからといって仕事は普段とまったく変わりはない。職場での夕飯が終わり、勤務が終わりに近づいてくる。仕事をしながら冗談を言い合い「俺ももう今日で最後なんだから、お前ら少しはやさしくしてくれよ、冷たいんだから」などと仲間に軽口を叩くと本当に寂しくなってきた。
 八月二十五日の「内示発令」から一週間。俺は一体これにどう対処したらいいのか、当局の狙いは何なのか、皆に何を伝え、残したらいいのか、いろいろ考えているうち、あっという間に過ぎた五日間だった。
 世間では当たり前のようにいわれている『強制配転』。ここ数年、新聞や週刊誌、テレビなどでいろいろな職場でおこる『強制配転』に関する報道を読むことが多かった。それは民間企業での過酷なリストラだ。かつて国鉄の分割民営化の嵐の中でやられた『強制配転』や否応なしの『広域配転』。機関士や乗務員の仕事、保線の整備など、鉄道の仕事が好きで職場に入り、誇りを持って働いてきた労働者から仕事を取り上げていった。
 当時全逓は地区労に参加していて、国労の仲間たちと一緒に分割民営化反対で闘っていた。荒川区には隅田川駅という貨物駅がある。貨物輸送の拠点として多くの労働者が働く隅田川駅の構内で幾度も集会が開かれ、俺たち郵便局の労働者も参加した。
 分割民営化が決定してしばらくしたある日、俺は国労の分会役員として働いていた同年代の人が日暮里駅のキヨスクの売店で働いているところに遭遇した。言葉が出なかった。「大変だね」と声をかけると「頑張るしかないよ」と彼は言った。慣れない仕事に追いやられた人。この問題は今も解決していない。そして最近では民間でのリストラだ。辞めればこの不況で仕事はない。こんな仕打ちを聞くたびに怒りを覚えたが、いままさに俺たちの職場がそうなっているのだ、と痛感した。
 そしてこの間、俺のいる荒川郵便局に転勤させられてきた人たちが、どんな思いを持って元の職場を離れ転勤してきたのだろうか、とあらためて考えざるを得なかった。
 当局ともいろいろやりあってきたが、結局のところ俺の中には一人の労働者として愛着を持って働いてきた職場を追われることの悔しさが残った。

 最後だから仕事が終わったら皆で飲もうと、近くの行きつけの飲み屋「とく」に行くことになった。行ってみたら用事のある幾人かを除いて、全逓の組合員も全郵政の組合員も、早番から夜勤までこの日勤務だったほとんど全員が集まった。なかには今日明け番だったヤツも来て十数人になり、小さな店が貸し切り状態になった。「飯岡さんが最後だから」と声をかけあってくれたのだ。俺はうれしかった。
 やはり皆の関心は「いつ、誰が、どこへ転勤させられるのか。行きたくないと言ったら通用するのか」だ。「飯岡さんがやり合ってもダメなんだからな…。無理だろうな」。俺は皆に言った。「組合の上部がどう取り決めをしていても、現場は組合のちがいを超えて団結して理不尽なことを許さない力をつくろう」「いま組合はダメだけど、失望して組合をやめるのではなく、それぞれの組合を役に立つものに変えていこう」「そうだ」若いヤツらは真剣な顔でうなづいた。
 店から出ると「どうせ近いんだからサ、いつでも飲みにくればいいじゃん」などと皆に慰められ?「それじゃ、元気で」と解散した。零時を過ぎた荒川郵便局の前を通って、俺は家に向かった。歩きながら「もう、この連中と仕事をすることはないんだなぁ」としみじみ思った。夜風が目にしみたのか涙が出た。 


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