玖村芳男著「人民の大地―新釈・毛沢東の生涯」の読書感想文を労働新聞紙上で公募したところ、多数の応募が寄せられた。募集中ではあるが、感想文を紹介する。
私は高校生の時に、いくつかの毛沢東の伝記や彼が中国人民とともに闘い取った中国革命についての本を読んだこともあり、比較的知っていたつもりではあった。それらの本を読んで、「革命」といえばロシア革命しか頭に浮かばなかった私にとっては一つの発見であり、また、心を揺さぶられたことを覚えている。当時の中国の情景を思い浮かべながら(もちろん、実際に目にしたわけではないので想像に頼るしかないのだが)、毛沢東の活動や人民の闘いに思いをはせたものである。
しかし最近、高校生当時の思いはどこかに置き忘れてしまった感があった。
そうした折、本書を手にして読み、高校生当時持った思いが再びよみがえるのを感じると同時に、当時とはまた違った思いを持つことが出来た。
本書を一読してまず驚いたのは、非常に具体的に描かれていることである。毛沢東がどのような態度で同志、人民と接したのか、また、どのように中国革命を指導し、局面局面でいかに判断して態度を決定したのか、その他さまざまな事柄が会話や回想などを引用して生き生きと描写されているのである。
一九三七年七月七日、盧溝橋で事件が起こり、中国共産党は「国共合作を基礎とする各党派各階層の抗日民族統一戦線の樹立」を呼びかけた。昨日まで闘ってきた国民党と「合作」しようというのである。しかし、「人民大衆の眼は雪のように白い。なにが正しいかを見抜く力を持っている。人民大衆を信ずることだ」。毛沢東はこのように説き、人民を励まし、当時の日本軍と闘ったのある。一貫して中国人民を信頼し、そこに依拠して(言葉として適当ではないかもしれないが)楽観的に事態の展望を描いていたのである。
「人民大衆を信ずる―」。一見当たり前のようだが、こうした毛沢東の態度に、多くを学ぶ必要があることを改めて認識させられる。
また延安で、急に天候が変わり、雷が一人の農民に当たって倒れた。そして農民の一人が「あの雷が毛沢東に当たれば良かったのに」とつぶやき、身柄を拘束された。しかし、毛沢東は、その農民の発言に対して周りの人たちが怒りもせず、反発をしなかったことに注目して、「この土地の住民が(共産党に)反発しているとすれば、悪いのはこちらの方だよ。延安のこの狭いところに、大勢の軍人が押し掛けてきて、飲んだり食ったり、消費ばかりして、なに一つ生産しないのだからね。」と言い、その農民を解放する指示を出した。またあわせて党の幹部会を早速招集して、共産党の人民に対する態度について会議を開いたという。
人民に対する毛沢東の謙虚な姿勢をよく表す出来事だ。
経過が前後するが、毛沢東の青年時代の様子も描かれていて、これもまた毛沢東の人となりをよく描いたものである。
毛沢東は師範学校に通っていた当時、「無銭旅行」に出かけた。わざとボロ服とボロ靴を履いてである。そしていわゆる貧農の家をいくつも訪ねた。つぶさに農民の生活を見ようというのである。そして毛沢東は貧しい農民の生活を見て、決意をするのである。
「中国は革命を行わなければならない。これは私の使命である。…私の今後の一生はこのために捧げなければならない」と。「為人民服務」(人民のために奉仕する)である。
この時、毛沢東は若干二十三歳くらいであったようだ。
ここ数年、ソ連、東欧などのいわゆる社会主義諸国が崩壊し、「革命」だとか「人民」という言葉のイメージも大きく変質させられたように思われる。そして毛沢東に限らず、レーニンなども含めてそうした革命の事業を成し遂げた人びとに対するイメージも大きく損なわれた。資本家お抱えの売文家による本が数多く出版されている。毛沢東に対しては「集中攻撃」とも言える悪罵(あくば)が投げかけられている。
しかし、本書は本当の意味で毛沢東の全人像を正しく伝えるものであり、貴重である。売文家どもの描く「毛沢東像」に対する徹底的な反撃である。
わが国と中国との関係もここ最近大きく変化した。一時の友好ムードは消え失せ、口先だけの「友好」が語られ、実際は中国を再び敵視する策動がわが国政府と一部の反動らによって展開されている。
毛沢東の伝記を読み、中国革命に思いをはせていた高校生であった私も今年で二十五歳となり(日中国交回復の年に生まれた)、いわゆる「活動家」として日々生きている。
そうした時代と変化した今の自分が本書を読み、中国革命と毛沢東からなにを学びとるのか―、それは一生の仕事のように感じている。そうした点を思い出させてくれた本書と著者の玖村氏に感謝したい。
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