971005


やっぱ好きやねん

東京にやってきた石売り娘(中)

ひまな ぼんぺい


 「昼は何を食べようか?」と聞くと、「ラーメンが食べたい」と言う。遠慮してそう言っているのはわかってるから、新宿の中華料理屋で羊のシャブシャブをごちそうしながら、彼女のこれからのことについて話をした。
 このまま日本語学校に入るのは、在留資格の変更がまず不可能で無理なこと、仮に日本語学校を出て大学に入ろうとしても、向こうの高校を出ていないと受験資格がないことなどを説明し、
「国でいろいろつらいことがあったのは聞いているけど、八月末にはいったん中国に帰り、園芸学校を卒業してからまた来なさい。そのときには、僕もいろいろと手伝ってあげる。蘭芳は能喫苦(苦労を食べることができる=我慢強い)から大丈夫だろう」
 と言うと、彼女は「うん、わかった」と納得してくれたようだった。
 都庁の展望台に上ったり、原宿の竹下通りの雑踏を歩いたり(いっしょにプリクラをやろうとしたが、修学旅行生が大勢並んでいたのでやめた)、銀座をぶらついたりして、夜八時、鴫原さん宅に戻った。晩飯は、彼女の希望どおりラーメンにした。
 鴫原さんに彼女と話したことを報告すると、「じゃあそうしましょう。あした中国民航に行って帰りの便の手配をしておきます」と、半ばホッとした様子だった。それにしても、鴫原さんのフットワークの軽さはすごい。朝、蘭芳を迎えに行ったときに不在だったのも、彼女を連れて富士山の五合目まで登るバスの予約に行ってたんだという。
 その夜、蘭芳に話がきちんと伝わっているのか、僕の中国語の説明では不安だったので、木村茉莉子さんに電話で確かめてもらったところ、大丈夫のようだった。
 三日後、桜井さんが事務所に蘭芳を連れてきた。そこに横浜国大に留学している高嵩さんが合流した。高さんは、鴫原さんと蘭芳の手紙のやりとりを手伝った人で、「いい青年がいましてね」と、名前は鴫原さんから聞かされていた。聞くと、電車で友人と話していたら「あなたがたは中国人ですか」と聞かれ「そうです」と答えると、鴫原さんは「ああ助かった」と言って、以後、彼が手紙の翻訳をすることになったのだそうだ。
 彼は、「ビザを取るために十八歳の女の子が一人で二回も北京に行ったなんてすごいことです。僕も蘭芳の役に立ちたいんですよ」と、自分が受験勉強に使った教科書を何冊も持ってきていた。そして、日本語学校のことから、大学に入るための日本語能力試験、全国外国人留学生統一試験について、行われる時期や、その試験で何点とればどこの大学の受験資格が得られるかなどなど、詳しく説明した。
 これで、蘭芳は数年先までのことをかなりはっきりと思い描くことができ、あとは伸び伸びと日本での日々を楽しんだようだ。
 彼女が帰国する前日、中国語教室の仲間が中心になって事務所で送別会を開いた。木村茉莉子さんや、高嵩さん、中国語の先生の賈青さんも参加し、自分たちの夢を蘭芳の夢に重ね合わせるように励ました。鴫原さんはワイシャツにえんじ色の蝶ネクタイを締めており、この人の示した〈礼儀〉にちょっと感動した。
      * 
 十年前、黄河のほとりで小石を買ってくれた老人に招かれ、蘭州から一人の女の子が東京にやってきた。そして二年後、彼女は本格的に日本に留学してくることになった。
 当初は無謀だなあと思った鴫原さんの行為が、国交正常化二十五年の成果を僕たちに教えてくれたできごとだった。


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