「いろいろご迷惑をかけましたけど、八月五日に謝蘭芳が来ることになりました。いやー、ビザが下りたんですよ」
鴫原さんからの電話だ。謝蘭芳、僕たちの間で石売り娘と呼んでいる女の子のことは以前この欄で紹介したことがある。
少し繰り返すと、彼女は黄河上流にある甘粛省の炳霊寺で観光客相手に水色の小石を売っていた。一九九〇年に彼女と出会い、そのときに撮った写真を送ったり、たまに手紙を書いたりしていた桜井さんの発案で、九四年に甘粛省を再び訪れた僕たちは現地の旅行社に頼んで彼女を蘭州に招いた。このとき彼女は、鴫原さんという人にあてた手紙を僕に託した。この人は、たまたま僕の近所に住んでいたので、帰国後すぐに電話をして訪ね、手紙を渡した。仏像を見て歩くのが趣味だという初老の鴫原さんは、僕たちが初めて出会う二年前に炳霊寺を訪れて彼女から小石を買い、ハンカチを送ったり二、三度手紙のやりとりもしたが、その後は音信が途絶えたという。思わぬ便りに喜んだ鴫原さんは、村を離れて蘭州の園芸学校に入学した彼女に衣類や学費などをときどき送っていた。彼女からの手紙を読むのを僕も少し手伝った。
「来年の夏休みに蘭芳を呼ぼうと思ってるんですが、よろしく頼みます」という電話があったのは、去年の秋ごろだったか。唐突なのだ。彼も、いったん思い込んだら及ぼす影響のことなど意に介さずどんどん実行しちゃうよくあるタイプの人のようで、外務省や出入国管理事務所に行って彼女を呼び寄せる方法を尋ねたり、高嵩さんという留学生に手紙を書いてもらったりして、せっせと準備を進めているようだった。
鴫原さんからの電話が増えた。
「蘭芳が日本に来たいと言ってきたんですがね、飛行機の切符なんかどうやって買うんですかね」
僕は、甘粛省青年旅行社の社長を紹介し、彼の会社が出国手続きを手伝ってくれることになった。
この件を甘粛省からの留学生に話すと、「あっちは田舎だから、そんなかたちで日本に来たりすると、周りから白い目で見られ、就職などであとあと面倒なことになるかもしれませんよ」と言う。
鴫原さんにこの話を伝えたが、「頭に入れておきます」と言ったまま数カ月連絡がなく、彼女の来日話は流れてよかったかなと思っていたところに冒頭の電話があったのだ。
八月十日朝、鴫原さん宅に行くと、「伯伯(おじさん)」と叫んで十八歳になった蘭芳が出てきた。日本語の勉強をしていたのか、ダイニングのテーブルには教科書が広げられていた。
「この子は、このまま日本にいて、日本語学校に行きたい、アルバイトするって言うんですよ。先生もいいって言ってるらしいんですがね」
鴫原さんは、多少の援助はしてもいいと思っている、と言う。話は一気に飛躍するのであった。
「彼女の考えも聞いて、よくお考えになったほうがいいですよ」
と答えたが、どんなことを話しているのか、蘭芳にも雰囲気でわかるのだろう、じっとうつむいていた。実は、彼女の来日直後に会ってもらった、桜井さんの手紙を翻訳していた木村茉莉子さんによると、日本人からお金を送ってきたりして、彼女の一家はやはりつらい目にもあったらしい。そのことを鴫原さんはまだ知らない。
この日は時間がなかったので、日を改めて彼女の考えを聞くことにした。
十六日朝、蘭芳を迎えに行くと、鴫原さんは不在で奥さんがいた。「これまで私が銭湯に連れていくか、シャワーを浴びるかだったんですが、昨日はうちの風呂にも入ってみなさいって一番風呂をつかわせたら、湯船の中で洗っちゃいましてねえ。日本のお風呂の入り方を教えてやってください」
鴫原さんは仕事があるので、奥さんと娘さんがディズニーランドやお台場に連れていったりしたそうで、
「お台場で水をなめさせたんですよ。でも、あれが本当の海だと思ってもらっても困るんですがね」
と笑う。蘭芳はラジオ講座で日本語の勉強をしてきたようで、簡単な会話なら成立しているようだった。
「スニーカーはいて行きなさい。小遣い持った?」と出がけに奥さんが聞くと、「八千円」と答え、蘭芳は玄関に下りる前からスニーカーをはいており、奥さんは「あらあら」と苦笑する。
鴫原さんは、小石を売って家計を助けてきた蘭芳の幸せを願い、石ころよりはハンカチのほうが金になるのではとハンカチを送ってやったこともある。善意の人だ。しかし、「お父さんは気が早いので、何でもパッパと進めちゃうんですが、取り返しのつかないことにならないように、蘭芳とよく話してくださいね」と、奥さんには当然ながら戸惑いがある。
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