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労働新聞 2022年8月25日号 8面・通信・投稿

元気わくわく 街の風景

日暮里繊維街

 東京・JR日暮里駅を東側に出て日暮里中央通りに入ると、「にっぽりせんい街」と書かれたアーチが出迎えてくれる。電柱には「布の街・布の道」との掲示。ここから、約1キロにわたる商店街が今回ご紹介する「日暮里繊維街」だ。
 和装、洋装、紳士婦人服地、繊維製品、ボタン、小物や付属品など、それぞれのカラーを持った店が約60社・90店も並ぶさまは壮観でさえある。
 連日、歩道はアパレルメーカーの社員やデザイナー、学生、手芸を嗜む人、外国人観光客などが行き交い、過密状態となる。
 一見同じものを売っているように見える店でも、実のところ、得意ジャンルはさまざまだ。この違いを見極めることも、面白さの一つかもしれない。

起源は大正時代
 日暮里繊維街の歴史は、1910年代(大正時代初期)にさかのぼる。浅草の繊維商がまとまって移転してきたことをきっかけとして生まれた。
 その後の関東大震災(23年)や日暮里大火(38年)という不幸を経たが、神田や日本橋にあった紡績会社、染工所などから出たハギレ、余剰反などの仕入れ・販売が拡大した。
 日中戦争以降の統制経済によって繊維街の営業はほぼ停止されたが、戦後は軍の隠退蔵物資や米軍の払い下げ品などの販売を通じて営業が再開され、順調に発展した。
 もともとは業者を相手とする問屋街であったが、90年代に入ると小売を手掛ける店が増え、繊維街として知られるようになっていった。現在は小売が主流となっているが、生地数千メートルから10センチ程度まで、取引は非常に幅が広い。
 東京都内には特色のある商店街がいくつもあるが、これほど特徴のある商店街は稀有だといえよう。洋裁や手芸を趣味とする人は「1メートル100円」と表示された生地にわくわく感を抑えられないだろう。

東京日暮里繊維卸協同組合の齊藤雅久理事長に聞く
 東京日暮里繊維卸協同組合は69年に設立されました。私自身は「齊藤商店」を経営しています。
 繊維街の商売について、私は「同業多種」という言葉を使います。例えば同じスーツ生地でも店によって扱う品が異なります。「うちは麻に強い」「綿なら任せてくれ」とそれぞれに強みがあるので、自分の店になければ他店を紹介できます。組合員はライバルであり、仲間でもあるわけです。衣装、ドレス、ボタンなどの分類ごとに強みを持つ店もあります。
 コロナ禍で、繊維街も打撃を受けました。インバウンド(訪日旅行)などの人流が減ったことだけでなく、舞台などのイベントが中止になった影響も大きかった。  毎年行われているファッションイベント「日暮里コレクション」も、規模を縮小せざるを得ませんでした。この一環で、地元荒川区の友好交流都市である中国大連市中山区の「大連モデル芸術学校」との交流が行われていましたが、中断を余儀なくされています。
 ただ、滞日外国人の皆さんが故郷に送る目的で買い物に訪れることは続いていますし、人流が戻り始めたことはありがたいですね。
 それ以外の経営課題としては、この業界に限らないことでしょうが事業承継問題があります。また2023年10月に施行されるインボイス(適格請求書)制度については、とにかく分かりやすい制度にしてほしいということに尽きます。
 将来展望についてですが、個々の店はもちろん、協同組合の宣伝部がSNSを通した発信を強めています。写真だけの通信販売では生地の色や風合いを伝えきれませんが、動画などを使えば一定可能だからです。齊藤商店でも、ライブ配信で「動きのある」発信をしています。
 中国・大連との交流について話しましたが、近年、「日暮里繊維街」というブランドは世界的なものになってきています。この影響で、国内他地域から店が集まる傾向もあります。組合としては、こうした期待に応えられるように頑張っていきたいですね。


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