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労働新聞 2020年11月15日号 8面・通信・投稿

皆が良くなれば、僕も良くなる

障害が重くなっても不安なし!

埼玉県・大田 健児

 「若いのに車いすに乗ってかわいそうに」「パソコンができてすごいねー」「車も運転するの? そんな体でどうやって?」…。
 街に出ると一般の人たちからよく僕に向けられる言葉だ。生まれつき脳性まひという障害がある僕は、これらの言葉を聞くたび返答に困る。相手は自分と比べているのだろうが、歩いたこともなく、いつも力が入ってしまう体しか経験のない僕は、障害のない自分を想像すらできない。
 そんな僕も今年で五十歳を越えた。車いすに乗りながら、僕たちが運営している障害者施設の近くにある普通の小学校や中学校を出て、いろいろな人といっしょに障害があっても地域で暮らす活動をしてきた。二十歳で自動車の免許を取り、三十二歳で結婚し、同じ頃に「子どもの頃に遊んだ秘密基地のような仲間と通える場所がほしい」と、当時の仲間と今運営している施設をつくり始めた。こうして五十歳を過ぎるまでは、障害があるカミさんと二人、いろいろな人の手は煩わせたが、工夫と意地で何とか暮らしてきた。
 しかし、障害がある人間は五十の声を聞く頃になると概ね二次障害でできないことが増える。僕も昨年あたりから、車いすや自動車の運転、動かない左手を補うため過度に右半身を使用したためか、長年の首への負担が限界になったらしく、二次障害の頚髄症となり、今はトイレが間に合わなくなったり、口に物が運べなくなったりしている。車の運転なんてとんでもなくなり、一人では着替えも二時間、入浴はシャワーだけでも三時間もかかるようになってしまった。
 このがんばる時間がもったいない。そう思った僕は、ヘルパーさんに来てもらうことをカミさんに相談すると、「家が汚いから」「人がいると落ち着かないから」と、今まで仕事で障害がある子を持つ親御さんから何回も聞いたフレーズをカミさんが言い出した。そこはもう慣れたもので、「あなたの負担も軽くなるから」「部屋を一つ決めてそこだけで終わらせるから」と言いくるめた。
 渋々OKしたカミさん。最初のうちはその部屋を毎日掃除してヘルパーさんにコーヒーまで出していたが、今ではしらん顔で、時には自分の苦手なことを僕に頼んで、僕からヘルパーさんに頼む技を繰り出している。
 このように、年単位でだんだん明らかにできないことが増え、動かなくなっている僕の体なのだが、不思議とこのことに対する怖くも不安でもない。それは今まで、いろんな障害がある人の暮らし方の工夫をいっしょに考えてきたし、また僕やカミさんのことをいっしょに考えてくれる大勢の仲間や知り合いがいるからかもしれない。
 僕たちはこれまで「障害があってもなくても地域でともに暮らす」というスローガンのもと、活動してきた。管理されながら生活する入所施設を否定し、今も「ヘルパーや支援者だけに囲まれた暮らしは、本当の地域生活ではない」と、障害がある人と地域の人たちとの付き合いを模索している。
 今まで僕は、「こんな体でも人の役に立ちたい」と思い、活動や仕事をしてきました。目の前の人の暮らしが良くなればいい、皆が暮らしやすくなればいい、と思っていた。いざ自分の障害が重くなって、僕が子どもの頃に先輩たちが言っていたことは本当だったと再認識した。
 「自分だけが良くなっても、それは特別でしかない。特別は寂しいし、何も残らない。皆が良くなって、初めて普通になる。自分も含めてね」…この言葉を大切に、僕はこれからも、どんなに障害が重くなっても、僕が特別にならないように活動していきたいと思っている。


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