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労働新聞 2020年1月25日号

映画「家族を想うとき」を見て

「下流」の現実への強烈な怒り

宅配業・大西 進一郎

 現在上映中のケン・ローチ監督作品「家族を想うとき」を見た。この映画は英国の宅配業者が主人公になっている。これを、社会の底に横たわる不条理・不正義に対して透き通る視線を向けてきたケン・ローチ監督が描いた、ということだけで「見る責任」があると思っていた。
 だが、見終わって、言葉に詰まった。私はこれを仲間たちに見ろと言えるだろうか。描かれた労働現場の状況描写は、まさに「あるある」なのだが、次から次へのあまりにもリアルなトラブル、悩み、小事件の連続、しかもドラマに仕立てるための盛り付けなどではなく、そのまま私たちの毎日を写しているような、小市民の「ドキュメンタリー映像」なのだ。
 私たちは、毎日のつまらない些細(ささい)な問題を努めて気にしないようにやり過ごすことで、なんとか平穏な生活を維持している。それなのに、せっかくごまかしている自分たちの苦悩を掘り返されるような、「そんなものなんでわざわざ見るんや」という声が聞こえるような、そんな映画だった。それほど強烈な力のある作品である。
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 英ニューキャッスルの元建築労働者リッキーは、家族の生活を支えるため下請の宅配自営業者になることを選んだ。おそらく選択の余地はあまりなかっのだろう。
 労働環境は日本と大差ないように見える。雇用労働者でなく「自営業者」なので労働時間に制限はない。車など必要な物は全部自己負担。賃金単価は日本と比べて高いのか安いのかは映画では分からなかった。
 時間指定が一時間単位(日本では二時間枠、一時間はメチャクチャきつい!)。どんな事情があろうが休めば高いペナルティ(百ポンド=一万四千円以上)を取られる。元請け会社の社長か営業所長か分からないが、そいつは下請の事情にはいっさい耳を貸さず、ノルマの実行のみを要求する。絵に描いたような「悪徳中間事業者」ぶりだが、今の日本でも大手宅配業者の下の一次元請けもほぼ同じようなものだ。
 英国は労働組合運動の発祥の国だが、そこでも私たちのような労働法制の保護の外にある自営業者が現場の底辺を支えている実際があるというのは知らなかった。調べてみると、いま英国ではフランチャイズという形態(要するに個人自営業者)が増え出していて、バッキンガム宮殿の従業員までフランチャイズになっているらしい。
 底辺労働の構造というのはどこに行っても(どんな制度、どんな政治の下でも)そんなに変わらないということか、などと自嘲的な気分のなかで、とても重要なことに実は気が付いた。
 最近、「働き方改革」問題でクローズアップされた「上流労働者」たちの労働時間や賃金制度。これ自身にもいっぱい問題があるが、これを社会が受け入れる時、その緩衝装置が必ず必要になる。いま運送業(とくに宅配部門)のなかでも「働き方改革」が進められているが、これが進めば進むほど私たちの労働環境は時間も賃金も悪化すると私は言い続けてきた。そして規制外で働く人の需要は増え続けるのだ。大企業は、自分たちの責任範囲では完全に「コンプライアンス順守」、その外がどうなろうが関知しない。現在アマゾンで起こっていることが典型的な見本だ。フランチャイズが増え続けるのはグローバル資本主義の発展の裏面なのだろう。
 いままで私は、下請自営業などというのは「前近代的」な遅れた形態だと思っていたのだが、実はこれこそ資本主義の底辺を支える「最先端」の原動力なのだとこの映画を見終えて悟ってしまった。
 少し脱線するが、IT(情報技術)だの、AI(人工知能)だの、デジタルで産業活動は革命的に変わるだのと言われているが、上流労働者の仕事がロボットに奪われても、最もきつくて生産性が低く賃金の安い仕事は「下請人間」がやるしかないのは決まっている。
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 また、映画の印象的だった場面を少し。多分他の人の感想とは違うと思う。さすが英国だと思ったのは、配達先の客とサッカーの話題になり、応援しているチームが違うことで口論したり、配達時に本人確認のIDカード(日本のマイナンバーのようなものか?)を出さない客を「見せなければ渡せませんよ」ときつい口調でしかり飛ばすなど、なるほど参考にしたいな、と思うこともあった。少なくとも、日本での卑屈なまでのお客対応とは少し違うな、とうらやましかった。
 さらに、勤務成績の不良な業者がクビを宣告される場面で、「こいつの地域を誰か引き継ぐか?」という下りでリッキーが手を挙げる。なぜ下請制度が資本主義の底辺にとって必要なのか、なぜ底辺が団結できないのかを暗示している。名場面だと思った。
 リッキーの妻アビーもパートの訪問介護ヘルパーとして働いている。責任感の強い人なのだろう。急に休んだりする同僚の代わりに無理な時間外出動を強いられたり、苦労の絶えない状況に置かれている。そして子どもも含めて家族全員がだんだん追いつめられていく。時間もカネもなく、家庭内のケンカが絶えなくなる。普通に想像できるのは家庭の崩壊だが、ただこの家族はなんとか踏みとどまろうと各人がいろいろの努力をしている。そしてその思いがかみ合わないことで、さらに深刻な対立が…。
 そんな時、リッキーが配達中に暴漢に襲われ大ケガをする。その事態への会社の対応をめぐって、妻アビーが元請と電話で大ゲンカ、息子も父親を気遣う。家族への光明が見えたかと思ったのだが…。
 ラストは何でここまでしなければならんのだとやるせなくなる。大ケガをおしてトラックで出かけるリッキー。車に手をかけて止めようとする家族三人…。
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 邦題「家族を想うとき」は、この家族の微妙なつながり方に救いを見ようとしたのだろう。確かにまだこの時点では崩壊していない家族があった。しかし同じような境遇の多くの家庭は崩壊しているだろう。日本でも同じように。この映画を、家族の絆から見ようとする態度は間違いだと思う。多分ケン・ローチ監督もそう描きたかったのではないはず。家族がどんなに努力しても、それをぶち壊すほどの現実を見よ、と彼は言いたいはずだ。救いようのない現実に対するケン・ローチ監督の怒りこそがこの映画の土台なのだろう。原題の「 SORRY WE MISSED YOU 」の方が私には何となくしっくりくる。
 彼の前作「私は、ダニエル・ブレイク」も、追いつめられた貧乏人の怒りがテーマだったが、湯を沸かすほどの人間愛と燃え上がる真っ赤な怒りが見事に一体化していた。見た人は誰しも激しい感動に包まれたと思う。
 この作品は違う。ドス黒い怒りにあふれている。強烈さではケン・ローチ作品の中でも右に出るものはないのではないか。


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