ホーム労働新聞最新号党の主張(社説など)/党の姿サイトマップ

労働新聞 2019年5月15日号

映画紹介/
『作兵衛さんと日本を掘る』 

  炭鉱の記録と記憶、映像に

2018年、熊谷博子監督

 一介の炭鉱労働者である山本作兵衛(一八九二〜一九八四年)の絵画や日記は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)によって世界記憶遺産(正式には「世界の記憶」)の登録を受け、ベートーヴェンの交響曲第九番の自筆楽譜や「共産党宣言」及び「資本論」初版第一部などと並ぶ、言わば「人類の宝」として認定されている。しかし、当然本人はそれを目的に手掛けた訳ではない。作兵衛が後に世界遺産となる水彩画を描き始めたのは六二年、七十二歳の頃で、「昔の仕事や生活を、子や孫に残しておきたかった」という思いからだという。
 本作は、三井三池炭鉱の記録映画「三池 終わらない炭鉱の物語」やドキュメンタリー番組「三池を抱きしめる女たち〜戦後最大の炭鉱事故から五十年」など、炭鉱を舞台にした映像づくりで高い評価を受ける映画監督の熊谷博子が、作兵衛の残した遺産をたどり、彼が後世に伝えたかったものに迫る力作だ。
   *  *  *
 山本作兵衛は一八九二年、川舟船頭の次男として、現在の福岡県飯塚市に生まれた。
 当時、飯塚を含む遠賀川流域の筑豊地方は日本最大の産炭地として日本の近代化を支えた。堀り出された石炭は川舟によって遠賀川を下り北九州へと運ばれた。最大で八千隻が行き来していた川舟だが、八九年に鉄道が開通、父が仕事を失い、作兵衛が七歳の時に一家は炭鉱に職を求める。
 当時は中小炭鉱における採炭や運搬は人力が主。切羽(採炭現場)では、炭を掘る先山(さきやま)と、それを運び出す後山(あとやま)の二人一組で作業が行われるのが常で、男性が先山、その妻や妹などが後山を務めることが多かった。作兵衛自身も七歳の頃から後山の母について幼い弟の子守りとして坑内に入った。十四歳からは後山として、十七歳からは先山として加計を支えた。満足に学校に通えなかったが、幼い頃から絵が好きで、また仕事の合間をぬって学習を続けるなどの努力も重ねた。そこに天性の観察力と好奇心が加わり、稀有な民衆生活の記録者としての作兵衛が形成された。
 貧しく働き詰めの生活を強いられた作兵衛が再び筆を握るのは六十歳代の半ば、閉山した炭鉱の夜間警備員となってからで、「長男が戦士した寂しさを紛らわすため」だという。初期の頃はスケッチブックに墨一色で描いていたが、周囲の勧めで彩色画を描くようになった。その後、九十二歳で亡くなるまで、二千枚を超す絵画や七百点近い日記を残した。
   *  *  *
 本作で熊谷は、作兵衛の残した絵画や日記を紹介することに加え、作兵衛の子や孫、また炭鉱の女性から聞き取りを重ねた作家で詩人の森崎和江、百四歳の元女性炭鉱労働者である橋上カヤノ、常磐炭鉱の元炭鉱夫・渡辺為雄などのインタビューも交え、さらに作兵衛の作品に魅せられた記録作家の上野英信や現代美術家の菊畑茂久馬の足跡も辿りながら、炭鉱の労働や暮らしを浮き彫りにしようと試みている。
 この作品の作成に、熊谷は丸々六年を要したという。「作兵衛さんの残した絵と日記の背後にあるものが、あまりに深く大きすぎた」からだという。無理もない。作兵衛の残したものは「炭鉱に集中的に表現された社会の矛盾」などと要約されることを許さない、筑豊のすべてともいえる小宇宙だ。上野英信や菊畑茂久馬が作兵衛の作品に衝撃を受け人生を変えたように、踏み込めば踏み込むほど新たな視界が開け、逆にゴールが遠ざかる感覚があったのかもしれない。
 試写会で熊谷は、作兵衛の子や孫との付き合いが五年を超えた頃、初めて筑豊出身者に対する自身の差別体験を聞いた、と明かした。炭鉱をテーマにした映像作家として実績十分の熊谷だが、ここに来てやっと「仲間」としての承認を得た気持ちになれたのかもしれない。
 こうしてまとめられた映像は、インタビューの細部まで実に内容深い。作兵衛の作品と同じく、要約に不向きだ。ぜひすべてを堪能して頂きたい。  (T)


五月二十五日より全国順次公開


Copyright(C) Japan Labor Party 1996-2019