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労働新聞 2019年4月15日号 投稿・通信

映画紹介
「マルクス・エンゲルス」 

 若き革命家の情熱は伝わるが…

監督・ラウル・ペック/ドイツ・フランス・ベルギー合作

 マルクス生誕二百周年を記念し、二〇一七年に制作された映画である。原題は「若きカール・マルクス」。
 映画は、マルクスの関わっていた「ライン新聞」への弾圧に始まり、エンゲルスとの出会い、初の共著「聖家族」から共産主義者同盟の結成を経て、「共産党宣言」の発表までを描いている。
 要するに、マルクスの生涯にとっては「前半」である。「宣言」直後のフランス二月革命をはじめとする「諸国民の春」、ドイツからの追放、パリコミューンの経験とマルクスによる「フランス三部作」、「資本論」の執筆といった、ブルジョア国家権力への態度を含むマルクス主義の完成過程については描かれていない。
 映画は、時代考証は比較的正確だと評価されているようだ。この評価は、そう間違っていない。
 だが、この映画を見た大多数の人は、なぜ、どうやってマルクスが労働者階級解放のための理論を打ち立て得たのか、理解できないのではないか。
 マルクス主義に「親しんでいる」私がそう心配するぐらいなほど、本作には「時代背景」の描写が欠如している。映画の冒頭、「一八四〇年代のヨーロッパでは、産業革命によって資本家と労働者階級が生まれ…」とのテロップが流れるだけだ。
 たとえば、エンゲルスが、工場経営者である父親によって解雇された女性労働者に同情するシーンはあるが、なぜ彼女が遠いスコットランドからロンドンに出稼ぎに来ざるを得なかったのか、どのような労働条件で働き、なぜ経営者に反発するのか、なぜ薄暗い穴蔵のようなところで寝起きしているのか、まったく説明されない。エンゲルスは、こうした過酷な現実に向き合うことで「イギリスにおける労働者階級の状態」を上梓(じょうし)するわけだが、この映画では先の描写があまりに足りないため、鑑賞者には「女性労働者(後にエンゲルスの内縁の妻となる)目当て」としか思えなくなる。
 当時のヨーロッパは資本主義の発展期ではあったが、すでに、ほぼ十年周期の恐慌という、資本主義の避けがたい矛盾に襲われ始めていた。政治的には、ナポレオン戦争後、オーストリアのメッテルニヒ首相が主導した反動派の「神聖同盟(ウィーン体制)」が支配し、労働者はもちろん、自由主義的資本家でさえ厳しく弾圧されていた。こうした政治背景の描写もほぼ皆無だ。
 マルクス、エンゲルスはプルードンらを「空想的社会主義」と批判し、世界の「解釈」ではなく「変革」を訴える。また、「綱領以前に革命」を唱える「左」派のヴァイトリングらも論破した。つまり党派闘争を挑んだわけで、その過程で生まれたのが、共産主義者同盟(一八四七年)である。
 だが、ここまで述べたように、歴史的背景や労働者の状態への描写がないため、マルクスたちの理論の発展過程が理解できない。
 ヘーゲル理論はウィーン体制を正当化するための哲学だったが、その弁証法が、マルクスら「ヘーゲル左派」を生む母胎となったのだ。
 この映画では、なぜマルクスらがプルードンなどに容赦のない闘争を挑んでいるのか、その必要性が理解できない。筆者は、鑑賞者が「マルクスって自分に理屈ばかり主張する偏狭な人物」と受け取るのではないかと危ぐする。
 インターネット上の感想を散見しても、「貧乏なのになぜ家政婦がいるのか」「ちょっとおカネ入るといいもの食べちゃうの?」といった、実に些末(さまつ)な「突っ込み」があふれている。そう思わせることが狙いだとすれば、支配層にとって「よくできた映画」なのかもしれない。
 革命家マルクス、エンゲルスの情熱に触れたいと思うなら、見て損はない。だが、すでに述べたような弱点が、マルクスのみならず、映画自身への理解さえ制約している。最低限でよいので、当時の歴史を「予習」して臨んだほうがよいだろう。     (R)


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