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労働新聞 2018年11月15日号 投稿・通信

国土荒廃させる権力は続かない

原発の隣村で生きる

佐賀県・田畑 百生

  オレは六十三歳で独身だ。両親を末期ガンで亡くした。五歳年下の弟は福岡で独立し、スーパーの青果部を担当している。取引先の福岡・朝倉地区の水害には心労している。

農業に見切りつける村人
 わが村は佐賀県の西北端に位置している。三方を海に囲まれた半島の台地で、先人が開いた農地を耕して細々と暮らしてきた。田んぼ百アール強、畑百アール弱、ミカン畑五十アール強で、村では中堅クラスの農家だったが、今はクワや鎌はサビついている。
 中学を卒業する年、コメの減反が始まり、二年後はミカンが暴落。それでも十数年は何とか続いた。主力のコメの生産者価格が下がり、他の産品も安くなり、営農に見切りをつける仲間が相次いだ。そうしてこんにちに至っている。
 村では皆、出稼ぎで生計を補ってきた。オレも酒造工として働いて食いつないでいる。祖父は杜氏だった。父は蔵一(作業主任)を務めたが、四十歳を前に土木工事に就いた。
 日本酒造りは農業に似ている。どちらも温度管理が基本だ。だが近年酒造りも機械化し製造原価を下げて大量に生産している。酒造工の仲間も今では五人にまで減ってしまった。農産物も工業製品と同じく大規模な所が安価で安定して供給するようになり、村でも北海道産のタマネギやニンジンが地元産より安価で売られている。水産物もしかり。農業も酒造りも熟練者の知識や経験が不要だと言われているようでさびしい。
 余談だが、農業者は日和見主義だ。自然条件を無視したらマトモなコメや野菜は生産できない。太陽エネルギーはゼッタイだ。

事故後に村の意識変わる
 高校を卒業して就農した一九七五年、玄海原発が稼働を始めた。二〇一一年の東日本大震災後しばらくして定期検査のために停止し、以降ずっと動いていなかったが、今年六月には震災後初めて再稼働した。五百万キロワット分の放射能を生成して海をはじめ自然界にき散らしている。
 東日本大震災は天災だが原発事故は人災だ。父が他界して四カ月後の頃だったが、事故が起こったと知り当時オレと母はひっくり返った。母が「オマエが言ったことが本当に起きた」とつぶやき、ぼう然として目の前のテレビにクギ付けになっていた。その母も二年後にガンで他界した。
 亡くなった父は病床にいた時、「オレの人生で心残りは、オマエの嫁のことと原発を許したことだ」と言っていた。それまでは貧しいながらも助け合って暮らしていた村が、賛成、反対で二分しておかしくなった。減反反対、原発反対を主張するオレは「アカ」「非人」と呼ばれてきた。しかし原発事故によりわが村の空気は一変した。原発から五キロしか離れてないわが村人たちは「あんなもん不要」の意識が大勢となった。
 先日、九州電力の若い社員が原発再稼働の意識調査で訪ねてきた。前後して地元の反対住民の会も「反対チラシ」を配布している。
 若い社員とは一時間ほど話した。「福島の事故を説明してくれ」「オレたちは人体実験を受けているようなものだ」「将来に負の遺産を残している」「将来に対してリスクを少なくするために一刻も早く止めてくれ」「君の仕事に将来性はないよ。オレは残された人生は少ないが、君は今からだ」「原発会社の労働者である君個人に対しては何のウラミもない」「オレのように本音を言う住民は少ない。オレのグチ話を聞いた後は自分で判断してくれ」「ちなみに一カ月の電力使用量は二〇〜三〇キロワットだ」…そんな話をして、「また来てくれ」と若い社員を帰した。
 村人の意識が変化したことを楽観しているのはオレ一人だろうか。

「事物は変化する」
 「山を治め、水を治めるものは国を治める」。田舎の衰退は全国的だ。わが村では原発の再稼働がそれに追い打ちをかけている。支配者たちは目標通り進めているつもりだが、いつまでも続くとは思わない。士農工商の身分社会後まだわずか百五十年だ。連中はさまざまな方法で延命を画策している。村のリーダーたちは先祖伝来の農地を管理するために奮闘している。
 オレは一人身だが協力しなければ。かつて人口の九割は農山漁民だった。今や労働者階級が主で、細分化され、労働貴族といわれる階層から、パート・アルバイト職でその日ぐらしの階層までいる。
 「事物は変化する。発生、発展、消滅の歴史をたどる」「人間の考え方も環境で変わる」を信念にして、これからも生きていきたい。


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