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労働新聞 2018年9月25日号 投稿・通信

「登戸研究所」を訪ねて 
再び「戦争のできる国」に
しないために


旧陸軍秘密作戦の史実に学ぶ

神奈川県・石岡 真奈美

 敗戦七十三年を迎えるこの夏の猛暑の中、以前から気になっていた明治大学平和教育登戸研究所資料館を見学した。この資料館は明治大学生田キャンパス(川崎市多摩区)にある。というか、このキャンパス自体が大日本帝国陸軍登戸研究所(第九陸軍技術研究所)の跡地だ。
 同研究所は一九三七年、陸軍が全国から研究者や技術者を集めて開設した。陸軍の秘密作戦(防諜、諜報、謀略、宣伝)のための兵器や資材の開発拠点だった。「労働新聞」七月一五日号で紹介されていた映画「沖縄スパイ戦史」の記事に陸軍中野学校のことが書かれていたが、中野学校が「スパイ=人」を養成し、登戸研究所が「機材や兵器=物」を開発した。両者が一体となって秘密作戦を実行していった。
 ここで目にした遺構、展示物に大きな衝撃を受けた。人家からしゃ断された広い高台でいったい何が行われていたのか、ここでお伝えしたい。

「戦争の切り札」として
 まず、案内してくれた人の「ここで暗殺のための毒薬や細菌兵器がつくられ、中国で人体実験した」との言葉にドキッとさせられた。さらに「生物兵器、殺人光線、スパイ機器、謀略、ニセ札印刷、風船爆弾」…などの信じられない言葉が続く。
 展示室には米国に向けて飛ばし「最終決戦兵器」と言われた風船爆弾の十分の一の模型がある。和紙にコンニャクを塗った風船爆弾はここで開発され、各地の女学生たちによって大量生産された。米国に千発が着弾したというが、ほとんど「戦果」はあげていない。
 中国経済を混乱させるためにニセ札を印刷した工場跡地も残っている。ニセ札は技術者が総力をあげたもので精巧につくられている。日本人スパイが使うカメラや秘密インキなどもここで開発されている。
 生田キャンパスの一角には動物慰霊碑が残っていた。多くの動物実験が行なわれたことを示す遺構だ。日中戦争が泥沼化する中、動物実験で化学兵器、細菌兵器、毒物を開発した。また中国では七三一部隊などが非道な人体実験を行った。生物化学兵器は日中戦争で実際に使われ、敗戦時に遺棄された化学兵器は今もなお中国の人びとを苦しめている。中国で人間を大量殺りくする一方、動物を慰霊する…非人道的な所業と人間くささの同居するちぐはくさ、アンバランスな感覚が空恐ろしい。
 戦時体制下に科学者たちが「戦争の切り札」とされた秘密作戦に関与し、非人道的な研究にのめり込んでいった姿が浮かび上がる。過ちを繰り返さないために、この事実は広く知られなければならないと思う。

高校生が証言引き出す
 秘密作戦について、戦後もほとんど知られていないのはなぜだろうか。
 戦時中は口外すれば死刑となる軍事機密とされた。敗戦後も関係者は責任追及を恐れて口をつぐんだ。さらに登戸研究所員は米軍に協力することによって戦争犯罪を免責され、戦犯となることをまぬがれた。
 こうした経過があり、日本軍の秘密戦の全容は今も明らかになっていない。一方で生物化学兵器の研究情報は米軍の手に渡り、朝鮮戦争やベトナム戦争に使われたともいわれている。驚くべき現実だ。
 戦後、登戸研究所の存在は闇から闇に葬り去られそうになったが、それを止めたのは高校生たちのフィールドワークだった。
 八九年から長野県の高校生たちが元研究所員の家を訪れて聞き取り調査を行なった。何度も根気よく足を運ぶ高校生たちに「君たちには話そう」と重い口を開いたことから、隠されていた数々の資料が明るみに出てきた。また川崎市の高校生たちも登戸研究所について調べ、市民とともに遺構を残す運動を展開していった。こうした努力の結果、秘密戦に焦点をあてた日本で唯一の資料館が二〇一〇年に誕生した。貴重な遺構と資料が現在に残されたことの意義はたいへん大きい。
 日本の私たちの多くは侵略戦争や軍国主義について十分に検証せずにこんにちに至っている。当事者が亡くなったとしても遺構や資料は残る。戦争の隠された事実を掘り起こして後世に伝えることは未来への警鐘となる大切な活動だとあらためて感じた。


軍国主義に警戒心を
 八十年前、日本の国民は巧妙に軍国主義に取り込まれていった。今はどうだろうか。特定秘密保護法や安保法制が成立し、排外主義の動きもある。米軍の支配下で着々と戦争ができる国に変貌(へんぼう)しているのは間違いない。
 戦争ができる国にするためには、不都合な真実は国民にひた隠しにしなければならない。かつて登戸研究所で行われたような秘密作戦への備えを、これからの日本がやらないと言えるのか。警戒心を持ち続けなければいけないと思う。
 大学キャンパスには当時からあったヒマラヤ杉が葉を茂らせている。資料館も当時使われていた建物で、道路の配置も当時とほぼ同じ。陸軍のマークの入った古びた消火栓や倉庫も残っている。明るい敷地の中で学生たちが行き交う姿を見ていると、当時にタイムスリップしたような不思議な感じに襲われた。かつての雰囲気が濃厚に残るこの場所で、戦争の語られなかった事実を見て、知って、感じていただきたい。


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