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労働新聞 2017年10月15日号 投稿・通信

国交正常化45周年によみがえった 
漢字の日中共用化への思い

 先人の遺志継ぎたい

ひまな ぼんぺい

 先日、知人から「中国の団体から要請が届いて、メッセージを送りたいのだけど、その会長の名前の一字が打てないで困っている。IMEパッドでも出てこない。なんとかならないか」という相談を受けた。
 中国から届いたファクスにある名前を見たら、これは確かに無理だ。出てこないという字は、隹という部首の下に乃がついたもので、日本の漢字にはない。いわゆる「簡体字」というやつで、中国式の略字だ。中国語の辞書を引くと、もちろん出ていて、元の漢字は「雋」と分かった。漢和辞典で「雋」を引くと、「セン」とか「シュン」と読む。「すぐれる」という意味で、名前にふさわしい字だ。知人には「雋を使えばいいです」と返事した。
 こんな応答で思い出したのが、周恩来と高碕達之助のやりとりだった。
 知人からは「この字ならば、あった! 元の字をきちんと読み切らなったからだ。ありがとう」とお礼が届いたので、
 「元の字を読み切らなかったからではなく、あの字は中国解放後の独特のものです。かつてバンドン会議(アジア・アフリカ会議)で、周恩来が高碕達之助に『わが国では複雑な漢字だと人民が覚えるのが大変なので略字を作っています。聞けばお国でも同じようなことをなさっているとか。だったら共同してやれば日中両国人民が共通の漢字を使うことができていいのでは』と持ち掛け、賛成した高碕は帰国後、岸信介に進言したのですが、一蹴されてしまったとか。こんな経過があって、今われわれが苦労しなきゃならないのですね」
 と書いた。ところが、このエピソードをどこで聞いたのか、何かの本で読んだのか、さっぱり思い出せない。年表で確かめるとバンドン会議は一九五五年四月で、岸が首相になったのは五七年だ。ネットであれこれ調べるうちにたどり着いたのが岡田晃という名前だった。彼は社会党の代議士だった岡田春夫さんの弟で、バンドン会議の時に高碕達之助の通訳を務め、後に香港総領事もした人だ。
 僕は以前、国交正常化十周年を記念して制作された戦後初の日中合作映画「未完の対局」に出た三國連太郎さんと岡田春夫さんを招いて講演会を開いたことがあった。その少し後のはずだが、何かの小さな集まりで岡田晃さんの話を聞く機会があり、初めてその人が岡田春夫さんの弟であることを知って驚いたのだが、その時に聞いたバンドン会議での話はもっと印象的だった。その場で紹介された著書『水鳥外交秘話—ある外交官の証言』は、すぐに買って読んだに違いない。
 そんなことを思い出しながら確かめようと本を探したが、部屋がとっちらかっていて探しようがない。仕方なく都立中央図書館まで出かけて読んで、記憶はほぼ正確だったことが分かった。
 先月の二十九日は、日中国交正常化四十五周年の記念すべき日だったが、岸の孫である安倍晋三が仕掛けた解散総選挙騒ぎで世間はそれどころではない。ちょっと長くなるが、岡田晃さんの著書から一節を引用するので、先人たちの偉大さに思いを馳せてみるのも意義あることではなかろうか。
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 経済審議庁長官であった高碕達之助氏が、日本政府代表としてバンドン会議に出席した。この時、高碕長官は、はじめて中国の周恩来総理と会談し、歴史上有名な「日中政府間接触」の第一幕を開いた。この会議の席上、周総理は高碕長官に次の通り述べた。
 「自分は若いときに一年間だけ東京に留学したことがあります。多分、“法政大学”という名の大学だったと思います。大学の近くに下宿していました。下宿の近くに川が流れていたことを覚えています。当時、私は日本語はわかりませんでしたが、日本の新聞を読むことができました。この新聞で、私は日本や中国の政治の動きを知り、川の流れをみながら、中国の将来について、いろいろと考えました。
 日本と中国は、幸いにして、ここ千年以上、同じ文字を使ってきました。高碕先生、あなたも、中国の新聞の字はお読みになれるでしょう。しかし、中国はこれから漢字を簡略化したいと思います。聞くところによれば、日本も略字を作るそうですね。どうです。日本と中国とが同じ略字を作るように両国の学者をして会議を開かせ、検討させてみてはいかがでしょう。日本と中国とは政治体制は異っても、これだけは、百年、千年後の両国民族の子孫に遺産として残してやりたいものです。このような、日中間の話合いならば、アメリカが関知したことでもないし、日本政府も賛成するのではないでしょうか」
 高碕長官はこれに対し、「それは良い御提案です。日本に帰って、早速、文部大臣その他の関係者とも話し合い、両国の学者が話し合うよう取計らってみます」と答えた。その後、主として日本側の理由で、この学者の会議は実現せず、日本の政治も鳩山内閣から石橋内閣へ、岸内閣へと変っていった。
 一九五七年暮、廖承志氏が東京に来た。この問題はどうなっているのかとたずね、約束の実行催促をした。私は岸総理に、恐るおそる、従来の経緯を説明し、その指示を求めた。総理は「そんな余計なことはする必要がない!」の一喝。その当時の国内外の情勢からすれば、それはそれなりの考えによったものであろうが、結局、この問題はこれで、さっぱりと流れた。一人の人間の一言によって歴史の展開の方向が決定づけられた一瞬であった。その後、日本の中国に対する政治の流れも一つの方向をたどってゆく……。
 そして、両国はそれぞれ別の略字を作ってしまった。今日の日本の子供は中国の略字を学ばないし、読めなくなった。中国の子供も、日本の略字は読めなくなってしまった。千年といわなくても、百年後の日本と中国の文化の交流は、果して、これまで通り、スムーズに行くものであろうか。
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 その後、一九八四年の日中民間人会議で日本側が略字の共同研究を呼びかけたこともあったというが、ここで改めて先人の遺志を継ぐ決断をしてはどうか。今からでも遅くはない。
 僕はスマホのWeChatで中国の友人と時々やりとりしており、出ない漢字は仕方なくローマ字で代用しているが、そのたびに「岸のバカたれ、孫のアホたれ!」と心のうちで叫ぶようになった。


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