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労働新聞 2017年9月25日号 投稿・通信

今も昔も変わらぬ
厚木基地の爆音問題 
負の遺産を次世代に残したくない

運動広げ進化させたい

神奈川県・宮崎 努

 私は今年で四十六歳です。米軍厚木基地のある神奈川県大和市で妻と息子と三人で暮らしています。仕事の関係で数年ほど神奈川県を離れましたが、父の他界で一人になった母親の元に戻ったのが二十年ほど前です。
 これは飛行機、特に戦闘機の爆音に慣れてしまっている基地周辺に住む人でしたら共感していただけると思うのですが、当時は地元の大和に戻ってきて「あー爆音久しぶりだな」と懐かしく思ってしまいました。この時は本当にそう思ってしまっていたのです。
 私は生まれてすぐに両親と兄と共に一九七一年に大和に引っ越してきました。その前は都内の日当たりの悪いアパートで暮らしていたそうです。思いっきり洗濯物が干したかったらしく、母は父に「とにかく日当たりが良くて近くに幼稚園があるところ」と父にリクエストし、父は日曜日のたびに小田急線沿線の不動産屋さんを回り、都内から神奈川西部へと下り大和市まで来てようやく母のリクエストと合致した物件を見つけてきたそうです。母のおなかにはまだ私がいて幼稚園前の兄を抱え、とても家選びに同行できるものではありませんでしたが、身重の体で建売住宅の場所まで出向き、一目で気に入ってその場で契約して家を買ったと聞いています。
 当然その当時も厚木基地は存在していましたが、両親が訪れたのはすべて日曜日で、米軍も休んで戦闘機が飛びません。よく調べもしないで建売を買うのが悪い、と言われればそれまでですが、今のように簡単にインターネットで情報が手に入るわけではありません。それに不動産屋さんが親切に「このあたりの騒音はひどいですよ」なんて教えてくれるはずもありません。引っ越し直後の平日にはもう戦闘機は飛び回りました。その後しばらくしてから空母ミッドウェイの横須賀基地母港化が決定すると、その騒音はますますひどくなりました。父親は平日には仕事でほとんど大和市にいません。家にいる日曜日にはほとんど飛びませんので、家族の中ではたぶん父がいちばん騒音に疎かったと思います。

40年前の米軍機墜落の記憶
「爆音第一世代」として育つ
 一九七七年九月二十七日。私は幼稚園で兄が小学三年生の時、母に連れられて子供会のドッジボールの練習に近くの公園に出かけた時のことです。母が空を見上げて「あら、あれは何かしら、何か火の玉みたいなのが飛んでる」と空を見上げて指さしていました。小さい頃でしたが、たしかに火の玉のようなものが空を飛んでいたのを覚えています。
 ご存じの方も多いかと思いますが、その火の玉こそが横浜市緑区(当時)に墜落した米軍ファントム偵察機の、厚木基地を飛び立ってすぐの姿でした。「パパママバイバイ」という絵本などでも有名な事件ですが、私自身がこの事件そのものにしっかりと関心をもって接することができるようになるにはさらに四十年近くの時間が必要でした。
 私は小学校、中学校、高校とすべていわゆる爆音地域の学校に進学しました。窓ガラスは二重ガラスで防音仕様ですが、公立の学校でエアコンがかかるわけでもなく、夏の暑い時期には窓ガラスは開けっ放し。飛行機の爆音はそのまま筒抜けです。騒音で授業が中断したり、朝礼の時間にマイクを使っている先生の話すらもまったく聞こえなかったことなどよくあることでした。
 中学のある日、ある新任の先生が朝礼の壇上であいさつをしたのですが、その先生はおそらく初めて爆音を聞いたのだと思います。マイクを握ったまま「んんん、なんだ、なんだ…」と狼狽(ろうばい)していました。他の先生や生徒はすべて爆音に慣れてしまっています。あわてふためく先生を全員が冷静に見ている、そんなおかしな思い出もあります。
 これらのことはすべて、私たちの子供や学生の頃には当たり前のことになってしまっていました。市外、県外の友人が大和に遊びに来ると、家の上空を飛ぶ飛行機にびっくりして大抵耳をふさぎます。相模原の友人と電話をしていると、その友人の上空を戦闘機が爆音を上げて通り過ぎていきます。友人は「あ、ちょっと待って、今聞こえないから。もうそっち行くよ」。けたたましい爆音が私の家の方に近づいてきます。それと同時に友人の電話が静かになっていきますが、今度は私の電話がまったく聞こえなくなります。私は「ほい、こっちに来た。しばらく続くね、これは」。こういう話をしていても、もう電話はほとんど聞こえません。こうして電話はまた後でということになってしまいます。これも当時は当たり前のことに思っていました。
 私や兄と同じように、母も日中は大和にいるので、私たちと同じように日々爆音にさらされていました。先に書きましたが父は普段は県外(都内)に働きに出ているので、騒音問題には疎かったと思います。
 私が小学生高学年から中学にかけての時期から、厚木基地では夜間離発着訓練というものが行われるようになっていきます。夜には父も帰宅しますが、それが夜の十時近くだったりもします。そんな時間ですら離発着の訓練は続けられていました。夜寝る時は静かに…こんな当たり前のことも、基地の周辺にいるということで踏みにじられてきました。それでも当時の私には、やっぱり当たり前のことになってしまっていました。
 しかし、私の母は少し違っていたようでした。騒音問題に真剣に取り組んでいる人たちがたまたま近所にいて、その方々のお誘いもありまして、わが家は厚木基地爆音防止期成同盟という市民団体に加盟することになりました。「静かな空を取り戻そう」をスローガンに、もう半世紀近く活動している市民団体ですが、この当時はまだまだ加盟している人もそう多くはありませんでした。しかしそれでも少しでも国や米軍にこの理不尽な状態を改善するように呼び掛けていくことは大切なことだったと思います。この当時の活動を牽引(けんいん)されていた人の苦労も大変なものであったのではと思います。
 両親や近所の人が爆同で市民活動をしていても、当時の私たちの世代の者には「あー、うるさいけど慣れてるから気にしないよ」「日曜日に基地の周りで集会? そんなことより遊びに連れていってほしいな」「私たちは騒音なんてへっちゃらだ。なにこの程度の音でビビっているのかな」とか、県外から来た人が大和の駅前などで爆音を聞いて恐れおののいている姿を目にしてフフンっと鼻で笑い、よく分からない優越感というか、俺たちにはこれ日常なんだよという基地周辺で育ってきた子供独特の感情が養われていました。
 そうです。私たちの世代はまさに生まれた時から爆音にさらされて育ってきた「爆音第一世代」でした。

同時多発テロで爆音が激化
不当な現実に気付かされる
 私が一度仕事で大和を離れて県外まで引っ越しをした時、「なんて静かなんだ」と心から思いました。しかしそれもすぐに慣れてしまい、静かなことがまた当たり前になっていきます。そして私が父の他界で大和に戻ってきたとき、爆音が懐かしいと思ってしまった次第でした。
 しかし帰省した当時、時は米同時多発テロの発生した頃と重なり、アフガニスタンの空爆に厚木基地の航空隊(当時は空母キティホークの艦載機だったでしょうか)が参加することになったのと重なりまして。当時、仕事からやっと帰宅して午前二時に寝ようとしたら、朝までずっと、出航する空母を追いかけて戦闘機が基地から上がっていきます。結局、一睡もできないまま仕事に出かけることになる、などのこともありました。これはさすがにこたえました。子供や学生の頃とは背負っているものが違います。もしも仕事でミスしても「爆音で眠れなかったから」なんて言い訳は通じません。この頃からだんだんと爆音第一世代の強がりにも陰りが見えてきていたと思います。
 しかし決定的に思いが変わったのは、やはり私の子供の姿を見たことでした。 息子が二歳くらいの時、近くの公園で遊んでいると、上空をF がけたたましく飛んでいきます。あーうるさいなーと思っていると、息子がその場で両耳を押さえて固まってしまっていました。息子にとっては直下で爆音を聞いた初体験だったと思います。むむむ、これはいけない、そう思ってもそこから私に何ができるのか、その時は本当に漠然としていました。
 それからしばらくたった頃、母が肩を骨折し、普段の生活もままならない状態となってしまいました。毎日のように掃除や洗濯、ご飯作りに私たち夫婦が時には息子も連れて母の家に行ったりしている時、母が「いつもありがとうね。後さ、ついでではないんだけど、いま爆同で五次厚木基地訴訟の原告の募集をしててね、私は何も手伝えないから、努が行って手伝ってきてよ」と。子供の頃に母が誘われてわが家が参加していた爆同の活動に思いがけず参加する機会がやってきました。以前から少しだけでしたら手伝い(公園への集まりの送迎等)などはやったことがあったのですが、私から活動に出向くことは初めてでした。
 初めて活動に参加したのは、大和つきみ野で行われた原告団の説明会でした。小学校からの同級生と参加したのですが、その時たまたま爆同の委員長(現原告団団長)の大波市議会議員がいて、ぜひ委員になって活動に参加してほしいと推薦をいただきました。
 そこからあの爆音第一世代の強がりは消え失せ、この厚木基地とはいったい何なのか、この爆同の活動や訴訟団の活動とはなど、いろいろと私で勉強することとなりました。
 その中で読んだ本の中に、あの「パパママバイバイ」と、「『あふれる愛』を継いで」があります。「あふれる愛」は、墜落事故で娘と孫二人を失った父親が記した本で、娘のやけどとの闘病と死、その後の家族の半生が書かれています。絵本の方は過去に学校の図書室で読んだことがありました。当時は何だか「ふーん。かわいそうだね」と思う程度にしか関心がなかったのだと思います。
 しかし訴訟団の活動に参加していろいろと勉強していくと「ん、まてよ、これって今も昔も同じままなのか…」と気が付くことができました。幼稚園のあの日に見た火の玉の光景は私にとってもまさにリアルの体験。ファントムがあの時、横浜の荏田に墜落し尊い命を奪いましたが、一歩間違えればその時見ていた私や母や兄の上に落ちていたかもしれません。もしもそうなったら今こうして息子がいて嫁がいて幸せに暮らすこともできていません。その時犠牲になった子供は当時三歳と一歳。私の少し後輩で、もしかしたらどこかで出会っていっしょに仕事をしていたり、遊びに行ったりしていたかもしれません。ですがその機会は犠牲者には永遠に訪れないのです。
 テレビのニュースなどではよく「日米地位協定」という単語を耳にし、「あー日米安保での取り決めだよねー」と、その程度の知識で日々過ごしていました。それがどんなにも不平等で不当で、日本政府が米国に妥協しているのかということも知らずに。


爆同の活動に参加、多様な声聞く
若い子育て世代に声を広げたい
 私がこれらの本を読んだり、過去の爆同の先輩が残していてくれた資料などを読むうち、わずか数カ月で生活のスタイルは一変していきました。まずは訴訟団の活動の手伝い。そして原告に加わってくれる人たちへの勧誘や説明会への案内。提訴のデモ行進にも参加したり、新聞やテレビに取材されたり。原告団の会議にも参加するようになりました。私の同級生を中心にまったく裁判のことを知らなかった友人も何人も原告に加わってくれました。
 とてもうれしく思いましたが、同時にさまざまな声を見聞きすることになりました。「いまさら波風を立ててもねー」とか、私と同じように基地周辺で育ってきた人は爆音慣れしてしまっています。私のようにきっかけがあればそれが当たり前のことではないと知ることもできたかもしれませんが。また「最近そんなにうるさくないよ、気にしすぎ」とか「岩国に移転するんだからいいじゃない」など。「北朝鮮がミサイルを撃ち込んでくるかもしれない時期に、なに防衛力を落とすみたいなことやってんの?」という声もあり、さまざま意見を聞きました。同級生とこういったやり取りをしてしまうと、その後の同窓の付き合いで色眼鏡で見られてしまうかもしれません。そういった恐怖心もあり、私が誘った友人に対しても、そこからまた誘うということには懐疑的で、なかなか原告には加わってくれません。
 また新しい手法(インターネットを利用して等)で原告団を集めましょうと提案しても、長年続けてこられた先輩にはなかなか理解してもらえず、かといってこのまま古き伝統のまま進むと若い世代がいなくなってしまいます。爆同の活動というのはそれこそ今後、基地の周辺に住まう市民にとっては死活問題だと思います。
 私の今のいちばんの課題は、若い世代にこれらの大切な活動を継承していくための準備をすることなのかなとも思っています。私も四十五歳と必ずしも若いとは言えません。爆同では若い若いと言ってもらえますが、私よりももっと若い世代に大切な活動がほとんど伝わっていません。
 息子が耳を閉じて爆音に恐れおののくのは、人間として当たり前の姿です。そして爆音慣れしていき、爆音を上げて上空を通過する飛行機を見ても眉ひとつ動かさずに平然としている子供…それは当たり前ではなく異常なことなんです。そういったことを同じように体験して感じている、基地周辺の若い子育て世代はたくさんいると思います。その世代の人たちにもっと分かりやすく、そして子育てをしながらでも参加してもらえる市民運動にまで進化をさせること。これからの活動の真価が問われると思います。
 これからもできる範囲でですが、当たり前のことがゆがめられないような空をめざして活動に参加していければと思います。そして日本の政治家に一日も早く日米地位協定などという戦勝国と敗戦国の取り決め、不平等条約をなくするよう動いてほしいと思っています。これらは、私の子供や孫の世代にまで続く負の遺産だと思います。自然とか故郷とかおふくろの味とかならいいのですが、「今も昔も変わらないこと」がこんなことなら、何とも寂しいことだと思います。


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