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労働新聞 2017年8月5日号 投稿・通信

ドキュメンタリー映画
「チリの闘い」を見て

考えたいアジェンデ政権の経験

京都府 加藤 隆文

 一九七〇年代に作成されたドキュメンタリー映画「チリの闘い」が最近、日本で公開された。監督はパトリシオ・グスマン。南米通の人、または相当な映画通の人以外はほとんど知らないと思う。私も最近まで知らなかった。
 最初に映画の構成を紹介しよう。この映画は三部に分かれている。
・第一部 ブルジョワジーの反乱 七五年完成
・第二部 クーデター 七七年
・第三部 民衆の力 七九年
 時系列にはなっていない。第三部は第一部よりも前の時期からの民衆の動きの記録である。

チリの経験の結晶
 この映画は、七〇年にチリで選挙によって成立した社会主義・アジェンデ政権成立後の、民衆の動きに焦点を当てて描いている。当時、チリはアジェンデの社会主義的な政策をめぐって、これを熱烈に支持する人びとと、生き残りをかけて反対する人びとに引き裂かれつつあった。このドキュメンタリーは、その両方の人びとの意見、表情、闘い方などを冷静に記録しようとしている。撮影されたのは、アジェンデ政権の後半期からクーデターまでの期間。映画作成のスタッフはわずかに六人、たった一台の十六ミリカメラとテープレコーダーのみで作成された。
 撮影スタッフは、ほとんど内乱一歩手前という街頭の騒乱の中や、激しく言い争いが続く労働組合の集会、国会での論戦、軍の高官たちの動きなど、あらゆる場面に潜り込んでいる。対象選定の的確さ、非合法的手段も含めた対象への肉薄の仕方、スタッフが直面していた危険の大きさ(従軍カメラマンなどの比ではない)、どれをとってもこの映画が比類ないものであることを感じさせる。なぜそんなことができたのか、その訳を最初に見ておきたい。
 この映画を先入観なしに見たすべての人は、「すごい記録だ」と思うだろう。そしてしばらくすると「ニュース映像をつないだ物とまるで違う」と感じると思う。グスマン監督は、限られた時間、少数のスタッフ、フィルムなど資材の欠乏の中で、撮影に当たって決して行き当たりばったりにならないように入念に方法論を議論したそうだ。そして、この映画の解説書によれば「この映画を価値ある歴史的記録とするために、扇動的だったり弾劾調のスタイルを避け、『エッセイのような映画』を作ることを志向した」という。
 かれらが選択した方法について後にグスマンが語っている言葉を引用する。「労働者階級や小作農階級が国家権力を勝ち取るに当たって通り抜けなければならない要所はどれとどれだろう? そして、ブルジョワジーとその帝国主義支持者たちが国家権力をもう一度専有するために通り抜けなければならない要所はどれとどれか? 大規模な闘争の内部に十五ないし二十はあるこうした戦場の位置を突き止め、それらを一つ一つ確認してゆけば、現に起こりつつあることをめぐる弁証法的ヴィジョンを手にすることができるでしょう」
 映画の筋書きを解説するようなことはしたくないが、印象に残った場面を一つ紹介する。
 チリでは大資本家たちとそれに追随する上層部の一部労働者たちが、アジェンデ政権を追い詰めるために主要な鉱山やトラック輸送で大規模なストライキ、生産サボタージュを組織する。そのバックには米国の資金と中央情報局(CIA)の秘密工作員がいたことは明らかになっている。アジェンデ支持派の労働者たちが会議で、工場の接収や武器の準備を中央統一労組の幹部や政権幹部に激しく迫る場面があった。それに対して幹部らは、諸外国とや野党との関係などを理由に過激な行動に踏み出さないよう「説得」を続けるのだが「いつまで待たせるのだ!」と憤激する労働者たち。暴力革命によらずに政権の座についたことの困難さが浮き上がるような場面だった。
 「失敗した革命の教訓」としてだけではなく、このチリの三年の経験、その前の時期も含めて、労働者階級の力と知恵の結晶から学ぶべきものは多いと感じさせられる。そして、おそらくチリ国民の皆が、敵も味方も含めて、それだけの豊かな内実を知っていたからこそ、アジェンデを倒したピノチェト軍事政権が、後世に語り継がれるほどの大虐殺で革命派を根こそぎにしなければならなかったのだろう。

単なる「選挙」か?
 ここからは、私のきわめて個人的な感想。私は六八年十月から六九年四月までチリに滞在していた。当時は学生で、アジェンデ政権成立の一年半くらい前の頃だ。
 中南米は経済的に貧しく、軍事クーデターなどが頻発、革命家ゲバラなどの活躍もあって、国内に深刻な対立を抱える国も多かった時期だ。そのなかで、チリは比較的政情は安定し、鉱物資源の輸出国として経済も安定していたように見えた。
 南米の各国は、白人、インディオ(原住民)、そしてメスティーソ(混血)の人種構成で、メスティーソが大部分、白人は少数だが、政治経済の実権は白人の手にあり、インディオが最下層に置かれていた。
 何かの折に海軍の士官に聞いたら、「他の国では軍部が政治に口出ししてクーデターなどやったりするが、チリでは軍は伝統的に政治には関わらないことにしている」と言っていた。後にアジェンデ政権の内務相をやったプラッツ将軍の名前なども出ていた。
 都会の町中でも、後の激しい対立、分断を予感させるようなものは私にはまったく感じられなかった。私が接触する相手が比較的裕福な上層部が多かったということもあったのだろう。いずれにしても二十歳そこそこの世間知らずの外国の若造に社会の深層など見えるはずもなかったのだと思うが。
 さて、六九年の五月、帰ってきた日本は学生運動の最盛期。その渦中に巻き込まれ、自分の身の振り方で頭がいっぱいになり、チリで大きな動きがあったことなど頭の片隅にも残らなくなっていた。「へえ、選挙で社会主義政権ができたのか。よかったなあ」と、直前にその国にいた者でさえこうなのだから、日本のほとんどの人にとってはチリの革命などまったく関心事にもなっていなかったことだろう。
 やがて、高度成長が終わり石油ショックの時代へ。ヨーロッパでは、イタリア、フランスなどを中心にユーロコミュニズムが流行し、日本でも共産党が暴力革命路線を放棄して「民主連合政権」構想を打ち出す。世界的な共産主義運動の議会主義への路線転換の流行のなかで、共産主義者の間で「選挙で政権を取る」ことが困難であることの証拠として「チリの経験」が注目されることとなった。
 私は、この見解は正しいと思う。チリの経験は、ブルジョワジーとそのバックの帝国主義諸国が「つぶさなければならない」と決意すれば、カネ、人、文化、情報、そして軍事力を総動員することを如実に示している。これに耐える準備が必要なのは明らかだ。
 しかし、ではチリ革命は誤りだったと言えるのか?
 チリの人たちは、選挙で票を入れただけで何もしなかったわけではない。労働組合を結成し、産業コルドン(地域労働者連絡会)を組織し、反動派のストライキや破壊活動と闘い続けた。また、労働者、学生らが農民と組んで「地域部隊」を組織し、農地解放を求めたり、流通サボタージュに対して「人民商店」を各地に組織した。産業コルドンを中心に「二重権力状態」の芽生えも見られた。
 この点でヨーロッパとも日本とも明らかに違う。日本で民主党政権が成立した時、「革命だ」と言った人がいるが、単なる「選挙」にすぎなかったのではないか。日本共産党の掲げた民主連合政権も、職場地域における労働者や農民の果たすべき役割を訴えていただろうか。むしろ「過激な行動は選挙にとってマイナス」という態度を取ったのではないか。
 チリの労働者民衆は、組合を組織し、地域組織をつくり、工場を国有化し、そして街頭で闘ってきた。選挙はその一側面だった。
 「チリの闘い」の映画のなかでも繰り返し描かれているが、武装しないと守れないこと、軍事クーデターが目前に迫っていることは、誰の目にも明らかになった。しかし、あくまで「合法」的に前途を切り開こうとしたサルバドール・アジェンデ大統領は、七三年九月十一日、最後はチリ空軍の爆撃の中で生涯を閉じる。感動的なラジオ放送を残して。


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