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労働新聞 2017年7月15日号 投稿・通信

「相模原事件」から1年 
19の命に謝りたいこと

名前さえ明らかに
なっていない犠牲者

神奈川県愛川町・渡辺 良一

 「相模原事件」と呼ばれてしまうあの「津久井やまゆり園」の惨事から、早くも一年が経とうとしている。
 先日、殺人罪で起訴された被告は「重複障害者を育てることが想像を超えた苦労の連続であることを知っている」と遺族への思いと謝罪を語ったが、犠牲者に対してのコメントを求められると沈黙を守り会見を打ち切った、と聞いた。
 精神鑑定では「自己愛性パーソナリティー障害」とされ、これは障害者を世話する仕事の中で育ってしまったものではないかと、複雑な思いで考える。
 被告の持っている優生思想は論理的ではなく、心情的なものだが、一方で優生思想を深く分析し、論理的にそれを否定した文献や研究が少なく、逆に生存の必要性から、経済効率という概念が人びとの心に深く染み付き、それがあちこちの分野で目標や評価基準となってきたと分析する人がいた。これは誠に的確な指摘と思う。思想に抗するのは論理的否定だが、経済効率を最優先させるこんにちの政治状況の中で最も困難になっていることではないだろうか。
 私自身、障害者グループホームと作業所を運営する法人に所属しているが、ここでは「多様性」という概念が、論理を超えた現実として行き交っている。「障害者」という言葉で保護するかのように見せかけて、忌み嫌われるグループをつくり、「障害福祉」という法的制度で、周囲から特別視される「囲い込み」がつくられてゆく。これは行政の仕組み上、仕方ない場面でもあるが、「障害」はどうして「個性」と見られないのか。
 「障害者」ではなく、単なる「松葉杖の○○さん」「白杖で歩いている□□くん」「手話でおしゃべり好きな△△ちゃん」と普通にとらえられたら、かれらから学ぶものは計り知れない。
 同様に、「相手の話は理解できるが、自分の立場や要望を伝えることが苦手な○○さん」「自分にもっとかかりきりになってほしい□□くん」など、かれらも本当は社会の中で生きてゆきたい。しかし、地域で受け入れられるかどうかは分からず、不安でいっぱいだ。
 「やまゆり園」のように閉鎖された施設は、今回のようなことでもない限り、地域社会で知られてさえいない。今回の犠牲者十九人が今まで生きてきたことの意味はこれからわれわれがきちんと検証してゆかねばならない。
 感傷的になる必要はない。ただ、かれらが普通の人であり、無辜(むこ)の人、つまり罪が無いだけでなく罪を問われること自体が当てはまらない人であったことを確認してほしい。
 かれらが抹殺されたことにわずかでも意味を持たせる思想がどんな貧しい政治環境なのか、それを現代に生きる一人として謝りたいと思う。
 ところが、手を合わせようにも、その名前さえ明らかになっていない。そんな状況をまず許してほしいと申し訳なく思う。


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