労働新聞 2004年10月25日号 通信・投稿

ある合併の風景から(2)
オーモンデーと出会う

長崎・峰松 幸司

 ようやくたどり着いた「遣唐使ふるさと館」は、本日閉館中。「一般の人の入場はお断りします」との告知。だか、ガラス越しに中を覗(のぞ)くと、多くの人が入っているではないか。この場合、もはや私は「一般の人」ではない。なぜなら、ここだけを目指して1時間近くも歩いてきたのだから。そう決め込んで、厚かましく中に入ることにした。
 中には2、300人、それも老若男女、実にいろんな人びとがいる。カトリックの修道尼、制服の自衛官、保母さん、それに赤銅色にやけた顔つきの農、漁民と分かる人びとの群れ。不似合いな背広を、ぎこちなく着けていて、何となくユーモラスな格好。皆が向いている正面には大きな看板が下げられていた。
 「三井楽町閉町式」。
 1市6町が合併し、8月1日に「五島市」が生まれる。それを前にして、三井楽町の「閉町式典」がここで行われていたのだ。明治2年(1869年)に2664人の人口があったと記されているから、ゆうに100年をはるかにこえて存在し続けた、離島の1つの町が、今閉じられようとしているのだった。まったく一期(ご)の機会に、偶然私は行き合わせたことになる。不思議な縁だ。式典は終わりに近いようだ。
 なぜ合併なのか、合併して、この町はいったいどうなるのだろうか? 例えば100年という歳月に、この合併は耐え得るのだろうか。数百年、数千年にわたって、万葉の時代から、この最果ての地で、先祖が営々と生き、暮らし、築いてきたこの風土はどうなるのだろう。市部への集中で、過疎は増すに違いない。火を見るより明らかではないか。この国の為政者のなす愚かしさよ、さまざまな感慨が生まれた。
 と、突然、イベントが始まった。
 殷々と響き、ふりしぼるような哀調を帯びたスローテンポの唄と笙(しょう)の音にあわせ、きらびやかな冠、黄色の腰簑、朱の装束をつけた、派手ないでたちの青年たちが登場した。腰につけた小太鼓を打ち鳴らしながら、輪になって踊りが始まった。
 解説嬢いわく、「嵯峨の島のオーモンデーでございます。福江のチャンココと同系の盆踊りでございますが、離島のためもっとも古い形を残しているといわれている念仏踊りでございます。どうぞごゆっくりご鑑賞ください」。
 太鼓は踊りに合わせ、時に勇壮に激しく、強く、リズミカルに打ち響く。次にはゆっくりと消え入るようにたたかれる。激しい時も滅入る時も、重奏低音のように、高音の哀調の盆唄が重なり、流れる。
 激しさと対(つい)になった、この唄の何とも言えないもの悲しさは、深く魂を揺さぶるものがあった。同志Sもみみらくの上空を通って西方に旅立ったのだろうか。そして、これは盆踊りだが、同時に長い歴史を今終わりゆく三井楽町への、弔い踊りのよう私には思えた。

 初めて見る「オーモンデー」。これは望んでも見られるものではない。その機会は盆の数日だし、しかも嵯峨の島まで赴かなければならない。閉庁式に供えるイベントとして、三井楽・嵯峨の島から招聘(しょうへい)されていたのだ。私は偶然に感謝した。苦労の甲斐があった。
 と同時に、いつかこの勇壮な太鼓のリズムと踊りを見たことがある、どこかで確かに聞いたことがある、と憶った。
 それは、思いもかけなかった。沖縄のエイサーだ  エイサーの太鼓の音なのだ! と、思い出した。
確かに五島列島は、長崎の西、五島灘をはさんで東シナ海に浮かぶ「日本」最西端の島である。だが座標軸の基点を三井楽におけばどうなるか。朝鮮も中国も琉球も、すぐのお隣り、一つの海洋をぐるりと囲む、同じ一つの交通・文化圏にある。国だとか国境だとかの線引きは、ずっとあとの人為的なものである。人びとは時々の日本の政権がどうであれ、古来から自由に、そちら、こちらへと往来して来たのだ。琉球風俗の盆供養の念仏踊りが、小舟とともに伝わってきたとしても何の不思議もない。たどり着いた人びとは、先祖を敬うために、それを営々と受け継ぎ守ってきた。また、「日本」の方でキリスト教が厳しく弾圧されれば、人びとはここに逃げて来てキリスト教を守った。かくれキリシタンと呼ばれるが、人びとは案外隠れるどころか、厳しい自然の中であれ、この海洋を前に、悠然と暮らして来たのではないか。修道尼の姿があったのも、そんな歴史性からだ。
 とすれば、ここは「さいはて」ではなく、海洋圏の一つの中心となるべき土地である。
 やがて国境がなくなる歴史のその時へ、三井楽よあり続けてくれ! そう私は強く願いながら、変わらぬ炎天の中、帰りのバス停へ急いだ。2004年7月31日、長崎県南松浦郡三井楽町は、閉町した。(完)


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