労働新聞 2004年9月15日号 通信・投稿

映画紹介 神山征二郎・監督
「草の乱」

120年前の秩父事件を再現
圧制と闘う民衆力強く描く

埼玉・中学校教員 吉野 博之

 「120年前の日本に凄いやつらがいた!」これがこの映画のキャッチコピーだが、まさにそれを実感する作品だ。この映画は秩父事件120周年を記念してつくられた。命をかけて決起した人びとの熱い思いを、誠実に伝えようとする意気込みが感じられる。秩父事件そのものは民衆の敗北に終わるが、この映画には悲壮感はなく、民衆の躍動する足音が響いてくる、力強い作品だ。
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 1918年、北海道野付牛町で死を間近にした老人が、家族に「自分の本名は井上伝蔵。秩父事件で死刑の判決を受けて逃げている」と語り始めた。
 1883年の秩父郡下吉田村。明治政府の軍備増強、増税政策とそれに追い打ちをかける生糸の暴落で、秩父の農民たちは追いつめられていた。高利貸しに苦しめられ、破産して先祖伝来の土地を取り上げられる農民が続出していた。
 農民の高岸善吉、落合寅市、坂本宗作は役所や高利貸しにかけあうが相手にもされない。命がけで闘うことを決めた彼らは、生糸商を営む井上伝蔵(緒方直人)に支援を求めた。伝蔵は自由党員であり、妻のこま(藤谷美紀)も伝蔵を理解し支えていた。自由民権思想に共感した農民たちはわれ先に自由党への入党を希望する。
 加藤織平(杉本哲太)など近隣の実力者たちも尽力を誓う。こうして田代栄助(林隆三)を総理とした「困民党」が結成された。困民党は、借金を抱えた者ならだれでも入れるという、貧しい人びとの組織だった。しかし、頼りにしていた自由党は、明治政府の激しい弾圧によって解党に追い込まれる。もはや自力で闘うしかなくなった彼らは、武装して明治政府打倒の闘いを準備する。84年11月1日、下吉田村の椋神社に白鉢巻とタスキをかけ、2000丁の鉄砲、竹槍、刀で武装した3000人の民衆が結集した…。
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 この映画のロケはは現地で行われた。椋神社に3000人の民衆が決起する場面は、見る人を圧倒する。120年前と同じ場所で、同じ光景が再現されたのだ。その思いが出演者をとらえたのであろうか、緊張した厳粛な雰囲気が画面に広がる。
 この映画には8000人のボランティアのエキストラが出演している。また、製作資金は秩父を中心にした市民の出資である。神山監督は「秩父事件を映画にしようと思い立った人びとによる、4億3000万円余の製作出資金。自主製作の歴史を変えたといっても過言ではないだろう」と述べている。困民党への熱い共感が、この映画を世に送り出したといえよう。
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 困民党は「自由自治元年」の旗を立て、明治政府の圧制に敢然と闘いをいどんだ。厳格な軍規をもった革命軍は3日間にわたり地域を治め、東京を目指して進軍したが、軍隊と警察に鎮圧される。彼らは暴徒とされ、8人が死刑となり、3800人に過酷な刑が科せられた。
 全国的な司令塔をもたない困民党の闘いは敗北したが、もし各地で呼応する動きがあればどうなったのだろうか。この事件への興味は尽きない。彼らの闘いは、自分たちを苦しめる政府を力ずくで取り換えることは民衆の権利であることを身をもって示したという点で、きわめて革命的だった。だからこそ、時の政府は彼らの闘いを歴史から抹殺してきたのである。
 困民党が多くの犠牲を払って目指した自由自治の共和国は、120年後の日本にはまだ実現してはいない。それどころか、人民を搾り取り、増税、失業で苦しめ、人びとの怒りをそらすために排外主義をあおって軍備増強を強める政府は、いまだに続いている。明治政府と小泉政権の共通性が見えた時、困民党への共感がわき上がってくる。
 日本は秩父事件から約60年で敗戦を迎えた。そして、それからやがて60年を迎えようとしている。私たちは世直しの闘いを受け継いでいかなければならない。 (U)

「草の乱」
公式ホームページ
www.kusanoran.com
東京・有楽町スバル座(10月1日まで)ほか全国で公開予定


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