労働新聞 2004年9月5日号 通信・投稿

オリンピックと愛国心

泉谷 順治

 アテネオリンピックが8月30日、閉幕しました。日本は東京大会以来の16個の金メダルを獲得したこともあって、この夏は日本中がオリンピック一色に塗りつぶされた感じでした。
 オリンピックを伝えるマスメディアは日本人選手の活躍を伝えることに必死となり、国際運動大会としてのオリンピックの姿は伝わりませんでした。日本のマスメディア(日本だけではないでしょうが)が報道する基本は日本人選手がどれほど活躍したかだけで、どれだけすばらしい試合が行われたかではありません。男子競泳で二冠を達成した北島康介選手のレースに至っては、戦前のベルリンオリンピックの「前畑ガンバレ」を彷彿(ほうふつ)とさせる「北島ガンバレ」をアナウンサーが連呼していましたが、これにぞっとする思いを抱いた日本人は私だけではなかったと思います。
 ベルリンオリンピックといえば、ナチス・ドイツがオリンピックを「民族の祭典」と位置づけ国威発揚と第2次世界大戦の準備をこの大会で行ったという意味で、オリンピックの「画期」をなすものです。「聖火」というものが登場したのはベルリンオリンピックからでした。聖地アテネから開催地のベルリンに聖なる火をリレーするというのはうまいアイデアでしたが、動機は別のところにあり、このコースはそっくりドイツ軍のギリシャ侵略に使われたというのは有名な話です。
 しかし、人はなぜ「愛国心」にかくも惹(ひ)かれてしまうのでしょう。自分の国がまさに侵略の憂き目にあっているのであればそれはある程度理解できますが、日本や米国といった先進国も含めて、いや、こうした強国こそが愛国心を必要としているようです。
 日本の教育は今大きく変わろうとしています。今年の卒業式・入学式では本当に異常な「日の丸」「君が代」の押し付けが行われ、これに抵抗した教員が多数処分されました。教育基本法の改悪も憲法改悪とともに政治日程に上っています。イラク侵略戦争のような、だれが見てもおかしいことを平気で行うためには、有無を言わせない「愛国心」こそが最大の武器となるのです。
 私もスポーツを観戦するのは好きですが、その背景にこうしたドロドロの国家的野望が見え隠れするオリンピックは、どうしても素直に見ることができません。将来のオリンピックは「愛国心」とは切り離された、もっと素朴な「郷土の代表」が集う大会になってもらいたいと思う夏でした。


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