労働新聞 2004年6月15日号 通信・投稿
「景気回復、信用ならん」
職安は相変わらずの「にぎわい」
長崎・峰松 幸司
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失業者組織発足から1年半
ハローワークでなじみの仲間に出会えることは、幸か不幸か?
政府が5月に公表した「数字」によれば、04年の1〜3月の国内総生産の成長率は、前期比で1.4%のプラス、年率に換算するとなんと5.6%になるという。確かに、いろいろ発表される官・民データも経済の回復を唱っている。「本当なんかいな?」「官庁データなど、統計の取り方しだいで、信用できん」、これが失業者の仲間の共通意見だった。
失業者の皆さんの努力で、失業者自身の組織を立ち上げて1年半が経過した。行政や労働局への要請行動、失業者の激励イベントなど、あわただしくやってきた。いろんな困難があった。そのいちばん大きなものは、なにせ失業者の組織なので、先立つものが足りないこと。
宣伝物の印刷費とかイベントの費用とか、応援の協力を得ながら、その時々を何とか皆で乗り切ってきた。しばらく自分の就職を延ばして、事務局でがんばってきた仲間も、生活の都合もあり、いつまでも無職のままとはいかない。そんなこんなで、がんばってきた失業者組織の役員の仲間は、なんとか勤め先を見つけて就職した。
就職できたといっても、週休2日などというのは夢のまた夢、天国のような話で、朝10時から夜10時まで拘束、家に帰ってくるのは夜中という劣悪な労働条件。労働基準監督署に持ち込めば、直ちに指導が入ると思われるような環境である。
それでも給料がいくらかでも高いなら、なんとかあきらめもつくかもしれないが、これがまた飛び抜けて低い。かくして、なんとか就職できたといっても、体がボロボロにならざるを得ないような状況である。労組結成も頭に入れながらも、とにかく職場の仲間との信頼、交流をつくり上げていくことを願いながら、彼は忍耐と苦難の日々である。
月一度の役員の懇談は欠かさずに来たが、それぞれに就職した先で仕事に慣れ落ち着くことが、当面まず第一であった。
活動再開しハローワークへ
それでも、皆も仕事の流れに慣れてきたので、そろそろ失業者組織の活動の本格的再開の段階となってきた。そこで、出発点であり、活動の現場であるハローワークに皆で「出勤」することとなった。
まずは顔なじみの手配師にばったり。極悪とまでは言えないが、相当あくどいピンハネを繰り返しているお兄さんである。高金利で金を貸し付け、逃げられないようにがんじがらめ、いったん軍門に下れば、逃げ出すのはそうたやすくない、といった手配師の親父もいる。
そんな中で、Oさんをひよっこり見つけた。
「あれ! どうしたの? 元気? A社に勤めてたんじゃないの? 辞めたの?」 「いや辞めてないけど、心筋梗塞で、救急車で運ばれて大手術を受けたんよ。危うく死ぬところじゃった」「へえー、大変じゃったねえ、大丈夫?」「いや、医者から再発すると言われて、今は療養中だが、金もかかるし、もう死んだほうがええなあ」と、まったく元気がない。
役所との交渉などにも参加した仲間で、組合の経験などもあり、弁舌は鋭く、話し好きのとてもいい人である。だがなぜか、ようやく就職できると、交通事故にあって失職したり、今度はきっと元気にやっていると皆思っていたが、心臓病とのことである。
そう何度も経験したことはないが、「言葉を失う」とはこのことであった。なんと言ってよいのか。どのように励ましたらいいのか。今のOさんの現実に投げかける励ましの言葉は出てこなかった。きっと家で療養していても、実家はすでに兄弟が継いでおり、ゴロゴロとしているわけには行かず、失業、就職、事故、失業、再就職、大病と、家では肩身が狭く、行くところなくハローワークに出かけてきたのに違いなかった。
もしポケットにいくらかでも金があれば、「おいしいもの食って養生してよ」と言いたいが、それさえできなかった。なんとか勇気をふるい起こして、「生きていれば、きっと良いこともあるよ。とにかく体を大事に養生してよ」と、私は言葉のむなしさをつくづくと感じながらも、声をかけた。
GDPの踊る数字とは無縁に、ハローワークは相変わらずの「にぎわい」だった。一歩一歩の歩みでも、失業者の思いを大きなものにしていくために、皆とがんばりたい。
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