労働新聞 2004年1月15日号

復刻された「にあんちゃん」
少女の鋭い感性に感動

佐賀 田中さよ子

 「にあんちゃん」とは一体なんだろうと思って図書館で手に取って見たのは十数年前である。「なんだ。小学生の日記か」と分かって読みたいとは思わなかった。その後 私は結婚した。連れ合いの荷物の中に文庫版の「にあんちゃん」をみつけた。その時も読む気はなく、書棚に置いた。数年前にS同志がうちに遊びに来て書棚の「にあんちゃん」を発見した。同志は貸してくれと言うので貸した。
 数日後、S同志と電話で話したとき、同志は「にあんちゃんはおもしろいなあ」としきりにほめた。次に会ったときには日記のいろんな場面のことを嬉しそうに私に話して聞かせる。もうちょっと貸しとってくれと言うので私は「あげますよ」と言った。
 近ごろは佐賀県が話題になるようだが「にあんちゃん」の舞台は今の佐賀県肥前町にあった。福岡県筑豊の話だと思っている人がいるようだ。炭鉱が出てくるからだろう。S同志が次に遊びに来たときにこの肥前町でちょうど「にあんちゃん」の映画が上映されるので家族を連れて同志と一緒に見に行った。作者 安本末子さんの日記は今村昌平監督によって映画化もされていたのだ。
 S同志の話を聞いたり映画を見たりすると自分も「にあんちゃん」を読んでみたくなった。ところが絶版になっていて手に入らない。古書店にもなかなか無い。それで図書館で借りて読んだ。
 S同志が感動した訳が分かるようだった。わずかな言葉が深い世界を描き出している。百万言を費やしても言い尽くせないことをわずか17文字で伝えてしまう芭蕉の俳句に似ていると私は思う。情操と作文、そして親子のきずなの一石三鳥をねらって私はうちの子供らに「にあんちゃん」の読み聞かせをしてやっている。難しい文章が高尚だと思い込んでいる人に読ませたい本である。
 24時間営業の便利店(コンビニなどのカタカナ言葉は隠れ右翼の私は使いたくない)は増えてもなんとなく住みにくい世の中になってきた。犯罪の低年齢化も進んだ。こんな日本の血液浄化剤に「にあんちゃん」はなりえるような気がする。特に若者たちに読ませたい。ついでに米国の死の商人の傀儡(かいらい)たちにも読ませたい。でも血の流れていないあやつり人形には効果はないか。
 好きな箇所は空で言えるくらいにS同志はこの本を読み込んでいた。惚れ込んでいた。S同志と私は「にあんちゃん」に出てくる場所をいくつか訪ねてまわった。安本さんが住んでいた炭住跡を探した。作者の少女は同志にとってジャンヌ・ダルクだったかもしれない。成長された安本さんは今の社会をどうご覧になっているだろう。
 私の好きな場面のひとつは風呂屋の箇所である。親子三人連れの乞食が女湯で意地悪をされる。それを見る作者の目。小学生とは思えないほどの感性の鋭さ。「人間のうんめいとは、わからないものです。お金持ちはお金持ちで一生をおわり、不幸な人は、不幸のまま一生をおくる、その不幸のなかでも、人から、きらわれ、にくまれ、おもらいをしてくらすこじき。」
 「死んでしまった方がましだ、と思ったことはないでしょうか。きっと、なんどもなんども、あったことでしょう。でも、生きてきたのです。」これから読む人の楽しみを減らさないように原文の紹介はこれだけにしておこう。それから唐津の眼科医院に入院したところはS同志も好きだった。
 その「にあんちゃん」の復刻版がやっと出た。私はたまたま書店で見つけて復刻を知りその場で購入した。今回の出版が病める社会のカンフル剤になることを願う。
 ファン(これくらいのカタカナはいいか)として望むことがもう一つある。活字になっているのは日記の一部でしかない。全部を完全版として出して欲しい。あえて実名で原文どおりに出版されているのもこの本の魅力の一つである。
 「にあんちゃん」の復刻をS同志とともに喜びたかったがそれはもう叶わないことになってしまった。もし完全版が出たら同志の霊前に供えようと思っている。


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