労働新聞 2003年7月15日号 通信・投稿
上場台地の百姓から
その6
楽しかった青年団活動
佐賀・田畑百生
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@青年団活動で切磋琢磨
農業青年団に入ったりしながら、景気がよかったおかげで遊んで暮らしていました。格好よくいえば、あちこちで勉強してきたんです。土日はほとんど青年団活動でした。夜に公民館で会合をやるんです。前日に口実をつけてスケジュールを決める。唐津の町を徒党を組んでオールナイトで遊び、屋台のラーメンを食べて帰ってくる。
夏は朝が早いもんですから、調子悪かった。近所の元気なじいさんが「お前らは朝帰りするのはよかばってんっが、格好ばつけて帰って来い」と言ってくる。「人目のつかないうちに帰って来い、人目につく時間なら、一仕事した格好をつけてい来い」というわけです。目を細めて指導してくれた。そんな余裕があったんです。
行事がない日曜日はつらかった。家の仕事しなければいけなかったから。野球やバレーなどいろいろやりました。そんなふうに他の村の人とも交流しながら、切磋琢磨(せっさたくま)してきた。先輩たちから、こうして青年時代は有意義におくれる、と教わりました。
そういうことができたということは、若い世代が村に定着して、生活基盤がそこにあるということなんです。村に定着して農業をやってるもんはみんな農業高校出身で、青年団の役員会するときは同窓会やっているようなもんでした。しかし、農業では食っていけなくてよそへ仕事に出て行くようになったら、自分の都合では遊べなくなる。そうして、青年団も人間がどんどん減って、活動が狭まっていきました。あのころの仲間とは、今もつながっています。
@諫早湾干拓、原発問題に取り組む
政府主導の青年団とはいえ、今思えば、ものすごい活動をやっていました。郡の青年団社会部長だった時に、取り組んだのが諫早湾干拓と原発問題でした。
諫早湾干拓事業では、県下の青年団員を集めて、反対集会がある時に仲間のために応援に行ったりもしました。70年代後半は、反対運動が盛んでした。有明海漁連の組合長が漁民の先頭に立って果敢にやってた。ノリ漁民、タイラギ漁民、それぞれの分野は違っていても「あんなものがあそこにできたら、有明海がどうなるか分からん」「これは止めさせることができるなら止めさせたい」という考えでは、漁民は一枚岩でした。有明海が死の海になる恐れがあるということは、漁民だけでなく、他の人たちにも影響があるからと、青年団でも訴えました。
いまだったら社民党も共産党もしないような集会を青年団の行事に入れてやったんです。 玄海町の原子力発電所問題でも、講師を呼んで一晩中飲んだりもしました。原発問題を口実にして青年団員との交流をはかったんですね。スポーツだけだと好かんもんもいますが、酒飲みならよかと。
いま考えたら、社会を動かすような運動をやっていたんだなと思う。青年団の県の幹部たちは自民党からかなりの制約も受けたようです。でも、「飛び跳ね」が多いから、抑えつけ過ぎると反発も招くということで、結構な活動まで許されていた。だから、反原発運動もできたんです。
ちょうどそのころ、75年の県知事選では、革新共闘の井手以誠・社会党代議士が保守現職の池田直知事に挑み、接戦の末に負けましたが、あれは井手さんが完全に勝ってました。農協青年部から何から全部、社共はもちろん、公明党も支持しました。地下足袋姿の井手氏は農民から強く支持されました。県民も井手じゃないと佐賀県の改革はできないと思っていた。
ところが、お上からの補助金に依存していた経済界が、「自民党でないとお願いできない」と焦った。池田陣営は青年部幹部を1人ひとり切り崩してきた。圧力あり、何でもありで、池田は滑り込んだ。井手さんは、私の知っている佐賀の政治家の中で、いちばんすごい人の一人だと思います。 (つづく)
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