労働新聞 2003年7月5日号 通信・投稿

上場台地の百姓から
その5
減反で農業が一大転換

佐賀・田畑百生

@増産の時代
 当時はまだ、増産につぐ増産の時代で、つくれば何でも売れました。冬はひまができれば出稼ぎです。裕福な農家への奉公や、男なら酒造り、女なら飯炊きに行ったり。うちのお袋は、唐津の向こう隣の浜崎町のミカンもぎりに行っていました。ご飯を食べさせてもらうかわりに仕事する。正月は少しおみやげにもらってきました。
 当時、浜崎町あたりの山地では、どこの家庭も競って開墾してました。ミカンを籠(かご)いっぱい、リヤカーで唐津に持って行って、帰りには唐津のバーでパーッとやってくる。当時の浜崎のミカン農家はそんな景気のよさでした。働くほうもめちゃくちゃに働いた。みんな気張って仕事して、家族健康であればよかった。家もどんどん大きくなった。

@変貌する村
 ところが社会経済の発展とともに、時代の流れとともに、1960
年以降、私が5歳になるころから、農村もガラリと変わってきました。池田内閣によって出された所得倍増計画によって農地はとられ、宅地になっていきました。とられた見返りに、山手に移り住んだりしました。
 それでも、70年までは、働きさえすればどんどん収入も増えるし、家も大きくなりました。しかし70年から減反が始まりました。社会もそうだが、この年が農業に関しては、日本の一大転換の年でした。
 昨日まで田畑を開墾して、それに奨励金まで出して増産させていたのを、その日を境にして「もうつくるな」となったのですから、うちの親も、全国の農家もみんな驚いたと思う。その前からコメの過剰が報道されていたが、まさか「コメをつくるな」と言ってくるとはね。
 「これはおかしな話だ。みんなが豊かになるのは生産物がどんどん増えるからと思っていたのに。つくり過ぎたのなら、食料難で困っている隣の人たちにあげればいいのに、なぜ?」と中学生ながらに思った。それからです、社会の工業化に伴って、農業が変な方向に、間違った方向にどんどんいったのは。だれが考えたのか知らんですけど。

@農業を継いだころ
 私が高校を卒業した74年ころ、うちには田畑とミカン畑を合わせて2町歩くらいありました。減反していましたが、コメを70俵出荷してました。
 田んぼ1町で1年食べられたくらいですから、かなりよかったと思う。畑ではイモ、麦、大豆などの穀類をつくってましたが、そのころから野菜をつくるようになった。野菜なども原価以下で売れるということはなかった。
 また、繁殖和牛が2頭いましたが、1年に子牛を2頭生んでくれたので、ボーナスになりました。そのころで20、30万円、今でも40万円ですから、大きかった。役畜で飼っていたので、耕運機の代わりはするわ、子牛を生むわで、助かりました。うちもわりと裕福だったから牛も飼えたんです。機械、トラクター、脱穀機などもあった。水のないところには溜池を掘って、ポンプアップしてたんぼをつくって、1粒でもコメを余計につくろうとしてました。70俵で70万円の収入があり、かなりよかったと思う。
 私自身も何の不自由もなく学校にも行けたし、農業にも携われた。また、勉強したいからということで先進地研修に半年間、行ったりもしました。奉公してそこの技術を学んでくる。そんな余裕があった。若いもんが半年から1年家を空けても、よかったわけですから。    (つづく)


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