労働新聞 2003年6月25日号 通信・投稿

上場台地の百姓から
その4
俺が生まれたころの話

佐賀・田畑百生

@俺の生い立ち
 自分の過去のことも話したいと思います。
 1955年、敗戦から10年、「もう戦後ではない」という高度成長期に入ろうという時期、石炭から石油へのエネルギー転換の時期に、肥前町の「納所」(のうさ)という所で生まれました。
 そのころの上場台地は、道もない、何もないところでした。納所は、台地の上でも盆地になっていて、昔なりの質素な暮らしには住みやすい所でした。地名「納所」は、年貢の納め所ということです。昔は京都のお役人さんは、船で年貢を取りに来た。隣の町の漁港に京泊という地名が残っています。土地柄を考えたら、なるほどと思える名前です。
 昔は、今のように経済活動するわけではありませんから、自給自足の生活でよかった。海産物は豊富にあるし、山もあるから、自分たちのまわりで食べるものは採れるし、豊かでした。だから、こんな狭い所でもたくさんの人が住めました。今は350戸くらいですが、昔は1000戸の家があったと古い書物に書かれています。実際、500戸はあったでしょう。今水田になっている所にも人が住んでいた遺跡があります。一家4人としても2000人。東西南北1キロ四方のところに2000人というのは、人口密度としては高いですね。
 昔は大家族は普通で、子供が5,6人いるなんてざらでした。子供の面倒をみるのはお年寄りや兄弟。母は乳飲み子に乳を与える時だけだった。
 親父の兄弟は7人いましたが、5歳ずつ離れていたので、自分にいちばん近い叔母は5歳上で、姉のようでした。ばあさんもがんばったんですね。じいさんもがんばったのかもしれない。子供は多いほうがよかった。切磋琢磨(せっさたくま)して生きていくことを身につけるから。子供がいくら多くても豊かだった。食うには困らなかった。
 私の生まれるころになってくると変わってきて、兄弟は2人でした。

@スイカ泥棒
 小さいころは、学校が終わるとよく海釣りに行った。中学生の時もクラブをさぼって行き、魚を釣って夕飯のおかずにしたものです。何も釣れなければそこらへんの海産物を採って家に持って帰りました。山に行けば、今ごろなら、ビワ、秋にはアケビなどを採りました。そんなことがおもしろく、遊びには困りませんでした。
 夏にはスイカができる。地主さんとの駆け引きがありました。「あそこの畑のがいちばんおいしい」というのを見つけても人に教えない。地主も「あと10日くらいしたらちょうど食べごろだ」と期待して見てる。それをちょっと拝借して、見つからないようにして食べるのが楽しかった。
 スイカがなくなっていると、隣のガキ大将に取られたことがすぐ分かる。力が弱いとか強いとか関係なく、早い者勝ちの競争でした。熟してないものを食べると何にもならず、後で見つかって叱られるだけ。熟れたやつを取ると、叱られることは叱られるが「お前、ようやった。よう知っとったな」って、かえって地主さんからほめられることもあった。俺が百姓を始めるころまでは、スイカ泥棒なんてよくあった。
 ところが、今の子供はよその柿をちぎって食べるとか、間違いを犯して他人から怒られるとか、ないでしょう。見つかってこっぴどく叱られて、牛の納屋に一晩中入れられたりもした。お仕置きを受けるんです。あそこの息子は、また納屋に入れられているぞ、なんて言われたりして。そんなふうにしてみんなで子供の教育もして、自給自足に近い生活をしていた時期だったんです、そのころまでは。
 安本末子さんという方が書いた、肥前町にある大鶴炭鉱を描いた『にあんちゃん』の本やビデオを見れば、当時の生活状況などが手に取るように分かると思う。私はあのころに育ったんです。        (つづく)


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