労働新聞 2003年4月25日号 通信・投稿

やっぱ好きやねん
風を食べる

ひまな ぼんぺい

 石原慎太郎氏が308万7190票を得て東京都知事に再選された。こんなときに古い話を持ち出して彼にはいささか酷かもしれないが、1997年のことである。
 この年の5月6日、中国との間で領有権の決着がついていない尖閣列島の魚釣島に西村真悟衆議院議員ら4人がゴムボートで上陸し、石原氏は「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー西崎義展氏からチャーターした船艇「オーシャン・ナイン」で伴走し、4人の上陸を見守った。
 国士を気取る石原氏がとったパフォーマンスの一つだが、これにどれほどの価値があるだろうか。94年の夏に中国の青海省で出会った、彼とほぼ同年代の男性のことを紹介したい。

 青海省は中国の西北、甘粛省・四川省・新疆ウイグル自治区・チベット自治区に囲まれた地域で、面積は日本の2倍弱。黄河、長江ももとをたどればここから流れ出ている。
 青海省での初日。省都西寧の青海賓館で夕食をとった後、薄暗くなった街へ数人で出かけた。屋台を探すが、僕好みの雑踏のようなところはなく、小さい公園の中に初老の夫婦が店を出しているのを見つけた。
 若いカップルが座ってジュースを飲んでいた。ビールも置いていたので、われわれもそこに座り込んだ。このあたりは海抜2200メートルで、真夏だったが肌寒く、生ぬるいビールがのどに心地よい。
 みんなおしゃべりの上に酒も入っていて、僕に通訳をしろと言う。
 「ずっとこの商売をしているんですか?」
 「いやー、2人とも定年退職して、働いていたときの給料の8割が年金として支給されるので、天気のいいときここに店を出して、まあ小遣いかせぎのようなものだよ」
 こんな会話から始まり、年金はいくら、定年は何歳、奥さんとはどこで知り合ったなど、みんな思いつくままに質問を出す。これではにわか通訳はたまらない。皆に待ったをかけて、
 「みんな勝手な質問をして、僕はへたな中国語で通訳しますので、失礼な質問があれば許してください。もちろん答えていただかなくてもけっこうです」
と断った。どこから来たのかと問われたので、東京からですと答えると、ご主人が言った。
 「そうか、日本から来たのか。すると君たちは関東軍の子孫じゃないか。私は松花江の近くの生まれだ。松花江を知っているか?」
 ドキッとした。松花江は中国の東北、黒竜江省を流れる大河だ。9・18(柳条湖事件)を歌った「松花江のほとり」という歌を知っています、とかろうじて答えると、にこりとしながら張りのある大きな声で話を続ける。
 「私の村にも関東軍が入ってきて、村人は周辺に追いやられ、彼らが真ん中に居座った。君たちはその関東軍の子孫だ。だから、いってみればわれわれは同郷人だ。同郷人が遠慮することはない。何を聞いても失礼なんてことはない」
 天気のいい日、公園に屋台を出して小遣い稼ぎをしているというおじいさんがこう言うのである。
 共産党や市の幹部が言うのではない。定年退職して小遣いかせぎに屋台を出している、いわば市井(しせい)の人の口からこのような言葉がさらっと出てくるのである。
 「一部の軍国主義者が悪いのであって、中国人民も日本人民も共通の被害者なのです」という説明は、日本の侵略についてこちらから話をしたときなどによく聞かされる。しかし、このおじいさんの言葉は、それを突き抜けていた。
 なにか、中国人のもつ途方もない気長さ、自信といったものに圧倒される思いがした。
 石原氏の中国べっ視発言やパフォーマンス、内政干渉は99年に都知事になってからその頻度を増すが、彼の作家としての想像力はこうしたおじいさんのところにまで及ばないらしい。
 屋台での会話は続く。
 「東北出身の人が、こんなに遠く離れた青海省にどうしているんですか?」
 「毛主席の呼びかけにこたえてやってきたんだ」
 50年代の終わりごろ、進んだ東北は遅れた西北の開発を支援しよう、という呼びかけがあり、多くの若者や技術者が東北地方から甘粛省や青海省にやってきた。奥さんも大連から来て、こっちで結婚したそうで、「習慣が違うのではじめは戸惑ったけど、すぐに慣れました」と言う。
 明日の夜も来ることを約束してホテルに戻った。しかし、翌日は夕方から降り始め、青海湖から西寧に帰り着いたときは土砂降りになっていた。再会はあきらめざるをえなかった。
 後年、マレーシアのマラッカに行った。案内してくれた華人のコーさんが教えてくれたマレーシア語が「マカン・アンギン」(風を食べる)。旅をするという意味だという。
 青海省で食べた風は、滋味あふれるもので、いまだに忘れがたい。


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