労働新聞 2003年1月25日号 通信・投稿

「日中友好の翼」に参加して(3)
友好運動は私の生涯の仕事

佐賀 高野 玄太

■12年来の朋友(ポンユウ)と会う■

 訪中2日目、坊膳飯荘での記念パーティを終えてホテルに帰り、ひと風呂浴びようとすると、電話が鳴った。早口の中国語だったので「不明白(プミンパイ)」と言って受話器を置く。程なくまたベルの音。今度は日本語で、王さんという中国人が訪ねて来ているというので、十一階から急いで一階のフロントへ行く。
 なんと王さんが奥さんと娘(中学2年)を連れて来ていた。妻が片言の中国語でとりあえず、部屋に招き入れる。2年ぶりの対面で、双方少々興奮気味。実は2年前の日中友好協会50周年記念行事の際に、王さん一家には2時間も待たせた苦い経験があった。今回は、妻が5日間の滞在日程とホテルへの到着時間を下手な中国語で訪中前に知らせていたので、時間のロスはなかったようだ。
 王さん一家との付き合いの始まりは、12年前に佐賀日中の第3回目の訪中の時、天壇の前で可愛いらしい女の子(当時1歳3カ月)の写真を撮らせてくれといったら、その女の子が泣き出したのを、父親(王さん)に無理になだめて撮らせてもらった。その写真を王さんに送ったことから、交流が始まった。王さんは日本語を知らない、妻は当時中国語を習い始めたばかり、タドタドしい中国語での文通である。今もタドタドしさに変わりはない。
 今回も筆談と下手な中国語なので、真意が伝わるのに時間がかかる。30分くらいして、ガイド兼通訳の秦さんと三ヶ尻さんが助けに来てくれたので話はスムーズに流れ始めた。双方の家族の実情、王さんの両親が病気がちであること、王さんが今日本語を勉強し始めたこと、娘が日本語と英語を勉強中で、将来日本の大学に留学したいとのこと。
 王さんは日本語で「アイウエオ。私は王潤です」と立派に言えたので、私が中国語で「天好(テンハオ)」(=とてもいいですね)とほめると喜んでいた。別れは辛かったが、再会を約して「再見(ツアイチェン)」。
 ところが北京最後の夜、ホテルに帰ってみるとガイドの秦さんが「高野さん、王さんまた見えている」とのこと。
 今度は初めから通訳入りなので、話はスムーズに。王さん自身が日本の大学に留学したかったが、会社での地位や年齢からいってそれもできない。それで娘を日本に留学生させたいこと、を話した。
 私は、57年前に軍人として中国に関わりをもったことを反省し、日中友好の運動は私の生涯の仕事だと思っている。年金生活で金銭的に余裕はないが、生活費を切り詰めても中国に行きたい。中国が困難を乗り越えて今日、目覚しい発展をしているのはわがことのようにうれしいと伝えた。彼も私の気持ちを理解してくれたようだ。
 改革開放路線は大きな矛盾を抱えながら進んでいる。先にも述べたように目覚しい経済発展の裏で、大変な格差が生じ始めていることは大変気になる。内陸部では年間2000円の収入しかない人がいる一方で、上海などでは経営者(資本家)の収入は5〜6000万円の高額の人も多くいる。
 佐賀日中の今回の訪中は、植樹という環境を良くすることへの気配りや、家庭に入りいっしょにギョウザをつくり市民レベルの話のできる場を企画してくれた。そのことに感謝を申し上げたい。個人的には新しい友人を得たこと、文通の友人から心の友人を確認できたことが心からうれしい。
 日本が今日まで戦後処理を十分にしてこなかったこと、歴史認識を正しくすること、強制連行への処理、従軍慰安婦問題、細菌爆弾の未処理、残留孤児の問題、実質的な賠償の問題など、日本政府に迫る運動をもっと強めなければと思う。
 中国の発展を目の前で確認しながら、また同時に日中友好運動の前進により、日本がかつての誤りを繰り返さぬように、佐賀の地でも努力したい。  (完)


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