労働新聞 2002年10月25日号 通信・投稿

いっそう「ゆとりなき教育」へ
ビジョンもたぬ文科省

新教育課程の実施から半年
泣く泣く配転させられる教員

中学校教員 西島達邦

 中学校の教師をしています。今、学校現場は大きく変化しています。
 今年の4月から、「新教育課程」が始まりました。土曜日が休みとなり、授業時間は30時間から28時間に減りました。新たに総合学習2時間、選択学習3時間が加わりました。それに道徳1時間、学級活動2時間があり、その分、社会や国語、理科といったこれまでの授業時間が減ったことになります。
 評価も相対評価から絶対評価に変わりました。文部科学省は、「新教育課程」の導入で「ゆとりある教育」をうたい文句にし、授業時間が減った分教師の負担も減ったように思われていますが、事実はまったく逆です。
 私は社会科専門ですが、総合学習や選択学習の導入で週に7〜8時間は自分の専門以外のこともやらなくてはなりません。
 また、土曜日が休みになりました。これまで教師は、授業の準備、テスト問題の作成、採点などを家に持ち帰ってやったり日曜日にやっていました。これが土曜日もやるようになったことに過ぎません。1日減った分の部活を土曜日に集中させるため、かえって忙しくなりました。いずれにしても、土曜日も日曜日も仕事をしていることに変わりはありません。
 絶対評価についても、何を評価の基準にするのか頭を悩ましているのが実際です。
 では、「新教育課程」は生徒たちにとってはどうでしょうか。総合学習といっても、ほとんどの学校で何をやるのかが定まっていません。文科省や教育委員会にそのビジョンがなく、教師も生徒もとまどっています。「できる」生徒は図書館などで学習し、そうでない生徒は遊びの時間になっているのが実際です。「できる」子とそうでない子の格差がますます広がっていくことになります。従来の授業が減った分学力の低下も問題になります。
 「1プラス1は2であることが分かることだけが学力ではない。だから総合学習を」ということを理解できないわけではありませんが、文科省にビジョンがなく、本来なら社会(地域)や家庭やで行われるべき教育内容まで学校だけに押し付けているように思えてなりません。 子供たちにがんばってもらう前に、自分たちで努力しようとしない社会。こういう無責任な社会でよいのでしょうか。
 私は教師を31年やっていますが、今回の「新教育課程」だけでなく、文科省に大きな疑問と批判をもっています。文科省はよく「学校を楽しく」と言います。
 私の同僚でもこれはよいという人もいます。しかし、教師が生徒に伝えること、生徒が身につけるべきことについて、時には苦しくてもがんばる、いやでもがんばるという、厳しさを乗り越えることも必要です。
 運転免許証を取らせないで卒業させる自動車学校があるでしょうか。「ゆとり」「楽しく」というなら、まだ基礎や基本が身についていない「できない」生徒を置き去りにしない教育、授業の時間割が必要なのです。教師にも生徒にも本当の意味でのゆとりが必要です。
 
教師の管理強める教育委員会

 教師の人事でも変化が起きています。私は今の中学校に来て1年目です。配転は、これまで約10年ぐらいの周期でしたが、2,3年前から7年ぐらいに短縮されました。配転するに当たっては、これまでは本人の「希望と納得」が前提でしたが、今はほぼ教育委員会の権限で自由に動かされます。時には強引にやられるケースもあります。
 以前は、1週間前に内示があって本人に知らされましたが、今は直前になりました。配転先の希望も学校指定から市指定になりました。教育委員会は教師をまるでコマのように扱っています。当然トラブルも起き、労働組合が強いところでは跳ね返すこともできますが、そうでないところでは本人は泣く泣く配転させられています。
 教師の管理を徹底し、自分の都合さえ満足させれば済む、こうした教育委員会の姿勢で本当に意欲のある教師が育つでしょうか。生徒にとってもよいことでしょうか。


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