労働新聞 2002年10月5日号 通信

温泉欲

ひまな ぼんぺい


直入町温泉療養文化館「御前湯」

 温泉に関して、僕は新参者である。
 酒については古参を誇っていたが、最近とみに飲めなくなった。少し度を過ごすと、翌日の食欲がまったく失せてしまう。これがつらい。酒欲より食欲を大事に思うようになってきた。
 だから温泉に転向したのかというと、違う。酒に弱くなったのに反比例して温泉にはまりつつあるのは事実だが、相関関係はない。
 新たに、温泉欲に目覚めたというべきか。
 小学校に上がる前、右腕の骨接ぎのため父親に連れられて別府に行き、そこで地獄巡りをして温泉に入った。小学校のころ、山口湯田温泉の千人風呂に入ったが、海パン以外のところは真っ黒に日焼けしていたので、「おい、パンツを脱いで入れ」と、客のおじさんに怒鳴られた記憶もある。小学校六年のとき、阿知須(先日、山口きらら博を開いたところ)の万年池で蚊帳をつってキャンプをし、そばのラジウム温泉に入った。高校1
年の夏休みに、宇部から中津、日田、阿蘇の内牧、久重、別府と自転車で回った。このとき宿泊先で入った風呂はほとんどが温泉だったはずである。
 こんなふうにある程度の体験はしているのだが、温泉のありがたみを感じることは皆無だった。
 ところが、去年の秋ごろから僕の周囲に温泉好きが多くなり、会うと彼らは温泉を始終話題にする。日経に連載されていた松田忠徳氏の「日本百名湯」が話の軸になることが多く、彼の『温泉教授の温泉ゼミナール』が出ると、僕はひそかに買って読んだ。
 「オレも温泉教授の本を読んで勉強しているが…」と彼らの話に口を突っ込むと、「実践と結びつかない学習はだめだ」と一蹴(いっしゅう)されてしまうのだった。
 で、こつこつと実践に励みだしたのだが、東京都心部に火山性の温泉はない。いきおい「黒湯」と呼ばれる、褐色のお湯に入ることになる。これは太古の植物からできた泥炭(でいたん)などから有機物が溶け込んだ地下水を汲み上げて沸かしたものだ。湯あたりは柔らかくまろやか。湯から上がって肌が乾くと、うっすらと皮膜ができるようで、体は温まる。
 数少ない黒湯体験のなかでは、大田区JR蒲田駅のそばにある「ホテル末広」の黒湯が最高で、濃い褐色の天鵞絨(ビロード)にくるまれているような心地よさだ。ただ、立ち寄り入浴だと1時間半1050円と高く、休憩室などがないのでゆっくりくつろげないのが残念である。その点、泉質は少し劣るが、浅草のど真ん中にある「蛇骨湯」は400円と銭湯の値段で、露天風呂、水風呂、休憩室を備えており、蛇口から出るお湯まですべてメタ珪酸と重炭酸ソーダを含む立派な温泉なのだ。湯上がりに浅草の街をぶらつき、気の利いたものを食べるのもよい。
 ところで、黒湯体験だけでは仲間内での肩身が狭いので、用事で地方に出かけたときは、火山性の本格的な温泉に入る。
 9月のはじめ、温泉好きの彼らと九州に行く機会があった。1人が「熊本と大分の県境近くに最高の公共温泉があると教授が書いていたので、そこに行こう」と言う。
 しかし、「日本百名湯」の番外編に書いてあったのだが、温泉名を思い出せないらしい。ネットで検索してもわからず、日経の読者応答センターに電話する。「固有名詞さえわかれば1発なんですが」と自社の検索システムを自慢するのだが、こっちはその固有名詞がわからずに困っているのである。
 温泉道の先輩になんとか貢献したい僕は、104で松田忠徳氏の電話番号を調べて電話をかけた。
 「先生はご在宅でしょうか」モンゴル出身という夫人に言う。
 「どちらさまですか」  「失礼しました。読者のひまなと申します」
 やや間があって、「徹夜で原稿を書いておりますので、3分だけならお相手できると申しておりますが」
 じょうずな日本語だ。
 電話に出られた教授に失礼を詫び、おずおずと尋ねる。
 「飲めると書いていましたか?」  「たしかそのように…」  「それならば、大分県直入町の長湯温泉です。『御前湯』が公共温泉です」
 それから教授は、僕たちの現在地を聞いたうえで、「車ですね」と確認し、長湯に至る2つのルートを教え、さらにそれぞれの途中にあるお奨めの温泉を紹介してくださった。お礼を言って携帯電話を切ると12分が過ぎていた。
 最初に「読者のひまな」と告げたのは、五木寛之が「家族より読者が好き」と書いていたから用いた姑息(こそく)な手段であるが、教授は懇切丁寧だった。
 「御前湯」は僕の過去の体験をはるかに超えるものだった。炭酸泉は日本のように活火山の多い国には少ない貴重なものだそうで、大浴場、露天風呂、ぬる湯はいずれもすばらしい。そして、はじめての飲泉…。
 だれかが「炭酸泉だから焼酎を割ってみよう」と言う。さっそく200円の三楽焼酎のカップを買い、お湯割りにする。炭酸泉は胃腸病に効くそうで、飲めば飲むほど胃がよくなるはずだったが、「これなら甲類の焼酎でも十分いける」と盛り上がり、ついつい度を過ごしてしまい、食欲をなくしたのである。


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