労働新聞 2002年9月25日号 通信・投稿

揺るぎない友好交流を

日中国交回復 30周年によせて
石売り娘(下)

ひまな ぼんぺい

 

 僕たちは、高校を卒業したら留学できるように協力するからと約束して帰国させた経過もあって、98年の夏に謝蘭芳の留学準備を始めた。
 日本語学校に行って調べたところ、従来の保証人制度は廃止され、彼女のように日本に身内がいず、両親からの仕送りなど望むべくもない人間には事実上日本留学の道は閉ざされていたのである。
 あれこれ考えた末、数人の仲間が発起人になって謝蘭芳留学基金をつくり、それで彼女の留学生活を保障することにした。多数の日本人が彼女の留学を支援するために基金に協力したという事実をもって入管当局に迫ってみようというわけだ。
 基金も集まり始め、彼女は99年8月に園芸学校を卒業したが、当初予定した日本語学校の入学基準が厳しくて受け付けを拒否されたため、改めて別の日本語学校に入学申請をすることにした。そうこうして日が過ぎるうち、在留資格を出す入管の許可条件が再び変わり、日本語学校が保証する形で留学できることになった。
 そして2000年5月27日、入管から彼女に対する在留資格認定証が出た。基金も100万円をはるかに超えていた。さっそく日本語学校に入学金、授業料などを払い、青年旅行社に彼女の渡航費用とこの間にかかったファクスや電話代を送金した。


入学式の日(右は筆者)

 これですべては終わり、あとは彼女の来日を待つだけとなった……はずであったのだが、思いもよらぬ波乱が起きたのである。
 「蘭芳から電話があって、北京の日本大使館に行ったんだけど、面接されちゃって、学費や生活費のことをうまく答えられなくてビザが出なかったんだって」
 僕たちもまさか面接があるとは思いもせず、基金があるから当面の生活費や学費の心配はいらないことを彼女に説明していなかったのだ。これが失敗だった。
 外務省と法務省に電話をすると、北京から戻された書類はまだ外務省にあった。すぐにビザ発給の要請文とこの間の経過を詳細に記した説明資料を作って提出した。
 7月末に再び問い合わせると、書類はすでに東京入管に回っていた。ところが入管に尋ねても、再審査の進み具合や担当官の名前などは教えてくれず、打つ手がない。
 10日後、入管の担当官から電話があったので、謝蘭芳の件を尋ねたが、外務省に提出した説明資料などは一切届いていないのである。そこで改めて資料を作り、以前ここに書いた「石売り娘」のコピーなどを持って、その担当官と面談をした。
 面談を終え、彼がこれらの書類をきちんと読んでくれさえしたら再審査はパスすると確信した。案の定、9月19日夜、北京の日本大使館から甘粛省青年旅行社にビザが下りたという連絡が入ったのである。
 2000年10月6日午後2時20分、謝蘭芳は成田空港到着ゲートを出て、日本留学の第一歩をしるした。僕たちが彼女と出会ってからちょうど10年後に留学が実現したのである。 蘭芳は10月10日に早稲田にある日本語学校に入学した。
 蘭州で日本語を独習していた彼女は、日本語学校の授業のテンポののろさにいら立ち、9カ月かけて学ぶ50課の教科書を2カ月で自習してしまった。だから、毎日の授業は復習のようなものだという。
 彼女は午後のクラスなので、アルバイトのない日の午前中と夜はアパートの近くにある別の日本語学校の食堂で勉強している。その食堂は広くて静かで、アジア各国から来た留学生たちが熱心に自習しており、とても刺激になるそうだ。夜、勉強を終えると、その学校にある10分100円のコインシャワーを浴びて帰る。
 彼女は家計簿をつけ、部屋代を含めても「月に4万円を超えない」切り詰めた生活をしている。

*  *  *

 来日後わずか1年2カ月で大学入試を迎えた彼女は、明治学院大学に合格した。
 2002年4月1日、東京は最高の気温を記録する晴天となった。入学式をすませ、謝蘭芳はめでたく大学生となった。僕たちの役目もひとまず終わったわけである。
 甘粛省の黄河のほとりで石ころを売って生計を助けていた少女が、12年を経て日本の大学生になった。この事実は、日中国交正常化30周年を迎える今年、ささやかではあるが僕にとって記念すべきできごとであった。                                                                     (完)


Copyright(C) Japan Labor Party 1996-2002