労働新聞 2002年9月15日号 通信・投稿

揺るぎない友好交流を

日中国交回復 30周年によせて
石売り娘(中)

ひまな ぼんぺい

 

 「いろいろご迷惑をかけましたけど、夏休みに謝蘭芳が来ることになりました。いやー、ビザが下りたんですよ」
 97年の夏、シギハラさんからの電話だ。
 8月10日朝、シギハラさん宅に行くと、「伯伯(おじさん)」と叫んで18歳になった蘭芳が出てきた。
 「この子は、このまま日本にいて、日本語学校に行きたい、アルバイトするって言うんですよ。先生もいいって言ってるらしいんですがね」
 シギハラさんは、多少の援助はしてもいいと思っている、と言う。話は一気に飛躍するのであった。
 「彼女の考えも聞いて、よくお考えになったほうがいいですよ」
 と答えたが、どんなことを話しているのか、蘭芳にも雰囲気でわかるのだろう、じっとうつむいていた。実は、彼女の来日直後に会ってもらった、サクライさんの手紙を翻訳していた木村茉莉子さんによると、日本人からお金を送ってきたりして、彼女の一家はやはりつらい目にもあったらしい。そのことをシギハラさんはまだ知らない。
 この日は時間がなかったので、日を改めて彼女の考えを聞くことにした。
 16日朝、蘭芳を迎えに行くと、シギハラさんは不在で奥さんがいた。蘭芳はラジオ講座で日本語の勉強をしてきたようで、簡単な会話なら成立しているようだった。   
 「スニーカーはいて行きなさい。小遣い持った?」と出がけに奥さんが聞くと、「8000円」と答え、蘭芳は玄関に下りる前からスニーカーをはいており、奥さんは「あらあら」と苦笑する。
 「お父さんは気が早いので、何でもパッパと進めちゃうんですが、取り返しのつかないことにならないように、蘭芳とよく話してくださいね」と、奥さんには当然ながら戸惑いがある。
 新宿の中華料理屋で羊のシャブシャブをごちそうしながら、彼女のこれからのことについて話をした。
 このまま日本語学校に入るのは、在留資格の変更がまず不可能で無理なこと、仮に日本語学校を出て大学に入ろうとしても、向こうの高校を出ていないと受験資格がないことなどを説明し、「国でいろいろつらいことがあったのは聞いているけど、8月末にはいったん中国に帰り、園芸学校を卒業してからまた来なさい。そのときには、僕もいろいろと手伝ってあげる。蘭芳は能喫苦(苦労を食べることができる=我慢強い)から大丈夫だろう」
 と言うと、彼女は「うん、わかった」と納得してくれたようだった。


来日した謝蘭芳(右)

 シギハラさんに彼女と話したことを報告すると、「じゃあそうしましょう。あした中国民航に行って帰りの便の手配をしておきます」と、半ばホッとした様子だった。それにしても、シギハラさんのフットワークの軽さはすごい。朝、蘭芳を迎えに行ったときに不在だったのも、彼女を連れて富士山の5合目まで登るバスの予約に行ってたんだという。
 3日後、サクライさんが事務所に蘭芳を連れてきた。そこに横浜国大に留学している高嵩さんが合流した。高さんは、シギハラさんと蘭芳の手紙のやりとりを手伝った人だ。
 彼は、「ビザを取るために18歳の女の子が1人で2回も北京に行ったなんてすごいことです。僕も蘭芳の役に立ちたいんですよ」と、自分が受験勉強に使った教科書を何冊も持ってきていた。そして、日本語学校のことから、大学に入るための日本語能力試験、全国外国人留学生統一試験について、行われる時期や、その試験で何点とればどこの大学の受験資格が得られるかなどなど、詳しく説明した。
 これで、蘭芳は数年先までのことをかなりはっきりと思い描くことができ、あとは伸び伸びと日本での日々を楽しんだようだ。
 彼女が帰国する前日、中国語教室の仲間が中心になって事務所で送別会を開いた。木村さんや高嵩さん、中国語の先生の賈青さんも参加し、自分たちの夢を蘭芳の夢に重ね合わせるように励ました。シギハラさんはワイシャツにえんじ色の蝶ネクタイを締めており、この人の示した〈礼儀〉にちょっと感動した。
 石売り娘は、この日本旅行を機に生きる方向を決めてしまったようである。彼女の前には、努力すれば自ら切り開くことのできる広大なフロンティアがあるのだ。
 ファイト! 冷たい水の中を  ふるえながらのぼってゆけ

(つづく)


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