労働新聞 2002年9月5日号 通信・投稿・文化

映画紹介

中国映画
「山の郵便配達」
「初恋の来た道」
秀でた映像美と人間描写

倉田 晃

 

 久しぶりに中国映画を見た。最近は映画を見ることも少なくなっているが、中国映画となると前にいつ見たのか覚えていないくらい間があいている。あまり感覚はあてにならないと思うのだが、ともかく「こんなに美しい映画もあるんだ」と感じ入ってしまった。上映の機会に接したら、ぜひ時間をつくってごらんになることをお勧めしたい。

*  *  *

 見たのは「山の郵便配達」と「初恋の来た道」の2本だ。「山の郵便配達」は1980年代初頭の湖南省の山村を舞台にして、30年以上山村を歩いて配達してきた父親と、その仕事を引き継ぐことになった息子の、引き継ぎのための3日間の配達行脚の物語。
 「初恋の来た道」は、50年代末の河北省の山村が舞台。その村の小学校教師として赴任してきた青年と村の娘の恋物語。その青年は40年ほど小学校の教師を務めて在任中に殉職するのだが、主人公はその妻だ。
 2つの映画に共通する第1印象は「とても美しい」ということ。背景は特別な景勝地ではなく、ごく普通の山村だ。例をあげれば、朝靄(もや)に煙る山里の風景や、頼りなげな材木でつくられた3連の揚水水車、かがり火に照らされながら踊る村の若者たち、そしてトンボの群れ飛ぶ夕暮れの谷間の道(山の郵便配達)、夕日の中で金色に輝く草原にたたずんでほほえむ少女、何もかも凍てついて雪に閉ざされた村のたたずまい(初恋の来た道)など、どこにでもありそうな山の風景を尋常でない画面に仕上げている。部分ではなく映画全体が透き通るように美しい。これだけでも紹介の価値はある。なぜって、こんな映画は最近あんまりないと思うから。


初恋の来た道

 なんでこんなに美しいと感じるのか、考えてみた。つまらない考察だが、道にも河にもコンクリートがない。空に電線がない。そして時間がゆっくり流れている。後で知ったことだが、「山の郵便配達」の監督は「緑を美しくとるのにたいへん苦労した」と、インタビューで語っている。
 また、人間描写という点でも、「山の郵便配達」は秀逸だ。淡々とした話の流れの中で、父の想い、息子の想いが柔らかく私たちに伝わってくる。
 特にすごいのは、町に出た息子から年老いて目を病んだ母に届くお金と白紙の手紙を届ける場面。美しい画面だが、老婆の演技に鳥肌の立つような思いで見入ってしまった。
 「山の郵便配達」には伝えたいメッセージがたくさん含まれているように思うが、山の暮らしへの憧憬や伝統的な文化への郷愁というようなものではなく、メインテーマは父から息子へ、そして息子から父へ、の生きる姿の引き継ぎ、というところに置かれている。
 「初恋の来た道」は先生の急死の報で、都会で仕事をしている1人息子が急きょ村に帰ってくるところから始まる。たぶん時代は最近の設定だ。町の病院から村まで遺体を車で運びたいとする村長らに、妻は昔からの習わし通り人間が担いで村への道をたどらせたいと、かたくなに求める。エピローグでは、費用や人手(村にも若者が少なくなった)を村長らは心配するが、結果的には、先生の教え子が100人以上(遠くは広州から)集まり、みんなで村までの道をたどる。村人も含めて、だれ1人担ぎ賃を受け取らなかった。
 その間に、先生と妻の初恋の物語が回想として映し出されていく。なぜ妻が道をたどることにこだわったのかも、明瞭にわかるようになっている。この映画の表面的な主題は先生と村の少女の純愛の物語だが、縦糸には父母と息子の関係がしっかりと織り込まれている。

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 最後に1つだけ、社会的背景にふれてみたい。中国の映画人はもちろんエリートだろうし、西欧文明からたくさん学んでいる人びとだと思う。また、中国は今世界でもっとも経済発展の速い国で、いわばるつぼのような状態にある。こういう状況で、こういう人たちが、電気も自動車道もないような山村に根をはって人生を全うした人を主人公にした映画を「なぜ」つくったのだろう。
 これらの映画はもちろん中国でも非常に高い評価を受けている。山村から都会へ出てきた青年たちがこの映画を受け入れたのだろうか。映画のテーマや背景として織り込まれている親と子のつながりが、共感を呼んだのだろうか。興味深いことだ。
 2本とも、ドラマチックではなく、本当に淡々と山里の生活を描いている。演出過剰、演技過剰で頭が痛くなるような米国や日本の流行映画との差は大きいと感じる。


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