労働新聞 2002年9月5日号 通信・投稿

揺るぎない友好交流を

日中国交回復 30周年によせて
石売り娘(上)

ひまな ぼんぺい

 

 甘粛省の黄河のほとりで小石を売って生計を助けていた「石売り娘」こと謝蘭芳が、12年を経て日本の大学生になった。この事実は、日中国交正常化30周年を迎える今年、ささやかではあるが僕にとって記念すべきできごとであった。謝蘭芳を軸にして広がった、僕たちの日中友好の歩みを振り返ってみたい。

 

 1990年夏、中国を訪れたときのことだった。
 甘粛省の省都、蘭州から南西にバスで3、4時間行ったところに劉家峡ダムがある。ここから遊覧船に乗り、上流に向かう。2時間もさかのぼると、林立する奇岩が迫ってくる。そのさらに奥に小さな船着き場がある。ここから歩いて炳霊寺石窟を見学するのだ。
 船を降り、団員の数をチェックしていると、小さな女の子が寄ってきた。「1個1元」と中国語で繰り返している。水の入ったお椀に青い小石が2、3個。
 白い帽子をかぶり、花柄のブラウスに灰色のスラックス、ズック靴のその子は、日焼けした顔をほころばせながらお椀を差し出す。真っ白い歯のこぼれる笑顔が、なんともいえずかわいい。
 みんながかまうものだから、その子は「1個1元」と言いながらずっと僕たちについてくる。炳霊寺の入り口まで、1キロ近くついてきたが、彼女の売り上げはゼロ。
 炳霊とは、チベット語で10万の仏という意味らしく、紀元5世紀から明代まで彫り続けられた膨大な数の石像は圧巻だが、一体一体の顔をじっくり見ようとしても、石を買ってやらなかった彼女の顔がチラついてどうもうまくない。
 しかし、見物を終えて出てくると、忽然(こつぜん)と彼女が現れたのである。待っていたのだ。僕たちは舞い上がった。そして船着き場まで繰り返される「1個1元」。
 船が出るのでいよいよお別れ、というとき、僕は3個1元にまけさせて、青い石を買った。

*  *  *


10歳のころの謝蘭芳(右)

 それから5年が過ぎた。僕たちは甘粛省青年聯合会の招きで、再び蘭州を訪れることになった。
 サクライさんが、「石売り娘を蘭州に呼べないかねえ」と言う。よしやってみよう、ということになり、甘粛省青年旅行社のガイドの曹世福君に「蘭州までの交通費と宿泊費はこちらが負担するので、ぜひ会えるように手配してほしい」とファクスした。
 8月9日、北京空港に迎えに来た曹君が「あの娘は14日の夕方に蘭州の金城飯店に来ます。父親もいっしょです」と言う。
 彼は、炳霊寺に行く同僚のガイドに頼み、船着き場で石売り娘を探し、父親とも話をして確認をとってくれたのだった。
 8月14日の夕方、金城飯店に着いた。甘粛省青年聯合会の邵明主席ほか、顔見知りの幹部が迎えてくれた。
 あいさつもそこそこに石売り娘は……と見ると、いましたよ。
 ピンクのブラウスにベージュのスラックス、黒い小さなショルダーを肩にかけた少女。そばに、日焼けした額に深いしわを刻んだ初老の男性が立っている。父親だろう。
 目が合うと、跳び上がるようにして何度もうなずき、こっちを指さしては父親に何か言っている。
 笑顔のさわやかさは5年前と変わらないが、ずいぶんと大きくなっていた。いまだに石を売っているそうだが、野良仕事もよく手伝っているのだろう、握手をした掌は、荒れてざらっとしていた。
 初老と見えた謝さんは50歳で、蘭州に出てきたのは初めてだという。「蘭州にはよく来られるのですか?」と質問した自分の能天気ぶりを恥じるとともに、中国を支えている謝さんと同じような膨大な数の農民がイメージされて、しばらく言葉が出なかった。
 成長して、石売り娘と呼ぶのにいささか抵抗を感じさせる彼女の名前は謝蘭芳。彼女は2通の手紙を持ってきていた。1通はサクライさん宛、もう1通は知らない人宛のもので、東京に帰ったら届けてくれという。
 僕たちの招きで91年に来日している金昌市青年聯合会主席の蘇天福さんも、8時間をかけて会いに来てくれた。蘇さんは謝さん父娘を招いたことをとても喜んでくれ、「中国では農民がいちばん苦労している」と言う。
 「子供が3人いるが、この子だけはよくできて、学年で2番」と、お父さん。
 蘭芳の担任は、30キロ離れた家から月曜日に歩いてやってきて学校に泊まり、土曜日に帰る。面倒見がよく、生徒のあいだでも人気が高いという。陳凱歌の映画『子供たちの王様』に出てきたような先生だろうか。

*  *  *

 彼女から託された手紙は、僕と同じ江戸川区内に住むシギハラという人に宛てたもので、電話帳で調べるとすぐわかった。
 会って驚いた。シギハラさんは、僕たちが石売り娘と出会うさらに2年前に炳霊寺を訪ねていたのだ。
 「ずっとどこまでもついてきましてね。あんな石よりハンカチのほうが売れるんじゃないかと思いましてね。ハンカチを集めて、洗ってアイロンをかけ、セロファンの袋に入れて送ったんですよ」
 以後、このおじいさんから頻繁に電話がかかるようになった。 
 「手紙を書いたので、中国語に訳してください」「学費の足しにお金を送ってやりたいんですが」「手紙が来たので、読んでいただけませんかね」等々。
 シギハラさんが送る5000円は、彼女の半年分の学費に相当する。これをどうやって送るか。東京で商売をしている中国人の友人に相談した。
 「田舎だから、中国国内から現金書留で父親宛てに送るしかない」と言う。蘭芳は中学生なので身分証明書がなく、受け取れないのだ。結局、彼が仕事で上海に行くときに預け、人民元に両替して現金書留で送ってもらった。
 農村の子供に生まれたから普通高校に進学するのは不可能だそうで、彼女は中学を卒業して、蘭州市園芸学校に入学した。
 父親は生まれて50年目にして初めて蘭州を訪れたが、娘は蘭州で勉強をする。大きな変化を思わざるをえない。

 蘭芳、見よ、
 今日も、かの蒼空に
 飛行機の高く飛べるを。

(つづく)


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