20020805

昭和史の生々しい証言者
「昭和萬葉集」に思う

海野 ひろし

 

 和歌や俳句に親しんでいるわけではないのだが、妙に惹かれるものがあって、10年ほど前に古本屋で全巻を揃えてしまった。毎年、この季節になると箱から出してみる。
 「昭和萬葉集」は昭和が始まった1926年から75年までの間に、歌集や同人誌に発表された短歌を集めた全集である。歌人として名を残した人、無名の作者の作品が世相や事件ごとに整然と分類されている。歌集というよりも昭和史の証言ともいえる。巻7は45年から47年までの作品を集めている。

  焼けへこみし弁当箱に入れし骨これのみがただ現実のもの (正田篠枝『ざんげ』1947年)

 作者の正田篠枝は、広島市の自宅で被爆した。被爆から半年後に原爆の悲惨な現実を書きつづった歌集を出版した。占領軍(GHQ)の検閲が厳しく、見つかれば捕らわれると、身内が反対するのを押し切ったという。自らの体験を伝えたいという強い意志を感じる。

  ビラ貼りに行かう、という子に はげまされ、夜ふけの街を、肩ならべゆく (渡辺順三『日本の地図』1954年)

   民主化闘争の高まり、2・1ストの挫折、婦人参政権、新憲法と時代のうねりが、歌の中から伝わってくる。戦争体験の風化が語られたが、この頃は、風化という言葉すら忘れられている。しかし、語り伝えていかなければならない、風化させてはならないと強く思う。

 炎天の焦土に声なし一切のことやみたりとわれこゑをのむ (鹿児島寿蔵『求青』1950年)

 玉音放送で、日本人は戦争が終わったと受け止めた。台湾の戦後史を描いた映画「非情城市」は玉音放送が流れる中で産声をあげた場面から始まる。同じ放送を聞きながらも、立場によって受け止め方は正反対になる。

 肌寒く夜なべに励み今宵聞くラジオは強く民主主義説く (朝日奈勘四郎『水甕』1946年3月)

 46年4月7日、幣原内閣打倒人民大会が日比谷で開催され、デモ隊は首相官邸を包囲した。22日に内閣総辞職。5月1日の復活メーデーは50万人が参加した。

 ブレーキを使わんとして声高にデッキの客をかがませにける (飯田恒治『機関紙の歌』1949年)

 復員兵や買出しの人びとで列車はあふれ、機関士のすぐそばにも人がいたのだろう。そんな情景が目に浮かんでくる。歌に込めた思いが、そのまま伝わってくる。

 作業場の大東亜共栄圏地図はづさむと張りて久しき埃を払ふ (三宅豊志『水甕』1946年4月)

 田舎の旧家に、今でも天皇の写真が、先祖の写真と並んで飾ってあった。本人たちは昔からの習慣のような気持ちだろう。しかし、戦争責任をあいまいにしてきた象徴ともいえる。

 闘争へ革命へ火と燃える胸をくるんで作業服のボタン 静かにはめる (深作光貞『人民短歌』1946年4月)

 敗戦から57年目。日本は4年連続で自殺者が3万人を超えた。そして有事立法、海外派兵、国民総背番号制と、きな臭い動きは留まることなく続く。平和な暮らしは見せかけの世界でしかない。

「昭和万葉集」全20巻(講談社1979年刊)