20020525

雨中嵐山、晴中嵐山、心中嵐山

肉親探しの訪日から19年
周恩来の石碑見つめる義父

今宮 浪虎


雨中嵐山   周恩来

雨中二次遊嵐山、
両岸蒼松、夾着幾株桜。
到尽処突見一山高、
流出泉水緑如許、繞石照人。
瀟瀟雨、霧濛濃、一線陽光穿雲出、
愈見■妍。 
人間的万象真理、
愈求愈模糊、
模糊中偶然見着一点光明、 
真愈覚■妍。

■=「女」へんに「交」

*  *  *

 決してスムーズとはいえない状況の中、彼女の両親にやっと理解してもらうことができて、去年10月、僕は中国東北地方からの帰国者の長女と結婚することができた。
 彼女の父の両親は日本人で、日中戦争終結後帰国。彼は中国人養父のもとで温かく育てられた。彼女の母は日本でいう〈肝っ玉かあちゃん〉で、中国東北料理の上手な、東北なまりの強い、いろんな意味で強い心をもつ人だ。
 彼女は12歳のとき、中国東北地方の敦化というところから家族5人で帰国し、東京での生活を始めた。日本で生活してすでに15年以上がたつ。中国語文化も、日本語文化も両方理解ができる、いわゆるハーフだ(僕はあくまでもダブルだと思う)。僕は彼女と留学時代に北京で出会った。
 僕は大阪生まれの大阪育ち、星野仙一を尊敬する大阪人だ。結婚して僕たちは大阪に住んでいる。
 今年のゴールデンウイーク、東京の父母が初めて僕たちの新居に遊びに来ることになった。僕は周恩来の碑がある、京都の嵐山散策に行こうと思った。

*  *  *

 5月3日、僕と妻と東京の父母の4人で嵐山散策に行った。つつじの花や藤の花の季節だ。木々の葉に力のある季節だ。木花は、待ってました! と太陽の力を存分に吸収している。人間も同じだ。なんだか、わくわくする季節。新しい発見ができる季節。雲ひとつない晴天の中、僕たちは渡月橋を渡り嵯峨野へ向かった。
 嵯峨野の竹林を抜け、ぜいたくな涼しさを堪能したあと、亀山公園に向かった。亀山公園の中に、周恩来(中華人民共和国元総理)が詠んだ『雨中嵐山』の石碑がある。
 この詩は周恩来が受験に失敗し、落胆した気持ちのなかで帰国直前に詠んだ詩らしい。雨の中、嵐山で周恩来は何を感じたのか? とか、この後彼は中国を代表する歴史的政治家となるが、受験と出世とはあんまり関係ないのだ! とか、適当に話をしていたが、僕は本当に感動していた。それは、この『雨中嵐山』の碑にではなく、それをまじまじと見て、なにかを確信している父に、感動していたのだ。
 妻と母は『雨中嵐山』の碑に来るのは初めてらしい(実は僕も初めてだった)。父は今回が二度目の訪問となる。
 1回目の訪問は、彼が肉親を探しに初めて日本に来たときだ。結局このとき彼は肉親を探し出すことはできず、落胆の気持ちで日本政府が準備した嵐山訪問を経て、中国に帰った。彼にそのときの嵐山の記憶はほとんど残っていないと僕は思った。
 肉親を探したい、自分のルーツを確認したい、希望と不安の気持ちで日本に来たのだろう。日本側から可能性のありそうな話を何回聞いたのだろう。1つの真実を確認するために、何回もそれらしき情報に期待し、そのたびに落胆していたのだろう。
 帰国期限が迫り、そんな状態で『雨中嵐山』の碑を見ても、嵐山の自然を感じても、その環境では精神的余裕はなかったはずだと思う。
 去年、1人娘がニホンジンと結婚した。父も母も、娘に対する不安でいっぱいだったと思う。ニホンジンの家族ができた……。それを良いことと判断するか、悪いことだと判断するか、最終的には時間がたってからでなくては実感できない。
 僕は確かにニホンジンだが、その前に僕は僕だ! との理屈を、結婚前に何度も押しつけてしまったが、それには時間がかかった。あいまいな真実を理解し合えるようになるには、時間が必要だ。
 晴天の5月、僕と妻と父母の家族4人が、周恩来の『雨中嵐山』の前にいる。父は前回の訪問から今までの時間の流れを振り返っていたのではないかと思う。その時間の流れは、なんとかなるよ、ではなく、なんとかせねば、の連続だったのだろう。
 『雨中嵐山』の碑を見たときから、19年がたった。経過した時間の流れを、今はじめて、なんとかなるもんだな、と思えるのだろう。
 僕はカメラマンとなり、石碑の前で親子3人の写真を撮った。ファインダーをのぞいたとき、僕は自分では表現できない熱いものを感じた。とてもあいまいだが、そこには真実があった。

*  *  *

 家に帰り、最近パソコンに対して興味がある父は僕の中国語ソフトを使い、ゆっくりとしたキーボード操作で『重訪嵐山』(再び嵐山を訪問する)という文章を作り始めていた。
 彼が感じた嵐山は、その時間の流れとともに表現されると思う。詩かもしれない。どちらにしろ、僕は父の心の中には嵐山があるんだなと思った。
 雲ひとつない五月の空。『雨中嵐山』が『晴中嵐山』になった。そして、この日は父にとって『心中嵐山』となったのではないかと思う。

【『雨中嵐山』の訳】
   雨の中、二度、嵐山に遊ぶ。 両岸の青い松が幾本かの桜を挟んでいる。 その尽きるところに、ひとつの山がそびえている。 流れる水は、こんなにも緑であり、 石をめぐって人影を映している。 雨脚は強く、霧は濃く立ちこめていたが、 雲間から一筋の光が射し、眺めは一段と美しい。 人間社会のすべての真理は、 求めれば求めるほどあいまいである。 だが、そのあいまいさの中に、 一点の光明を見つけた時には、さらに美しく思われる。

【背景】
 周恩来(1898〜1976年)は、1917年に来日し、19年まで早稲田大学や京都大学などで聴講生をしながら受験勉強に精を出していた。切実な経済的理由を抱えていた彼は、官費留学生として日本で学ぶために、日中両国政府間で指定された2校(東京高等師範と東京第一高等学校)のいずれかに合格することが必須だったが、両校とも不合格となってしまう。失意のなかで煩悶(はんもん)し、最終的に帰国を決意した彼は、帰国直前の4月5日に嵐山を訪れ、この詩を詠んだという。夢破れて日本を去る彼の目に、嵐山の美しい自然がどう映ったのか、何を語りかけたのか、とても興味を覚える。(N)