20020225

映画紹介 モフセン・マフマルバフ監督 イラン映画

「カンダハール」

貧者の痛みを詩的に描く


 イラン映画「カンダハール」の監督であるマフマルバフ氏は、「バーミヤンの仏像は爆破されたのではない。恥辱のために崩れ落ちたのだ」と語った。その言葉にひかれ、映画館に足を運んだ。
 この映画はテレビでも紹介され、ブルカをかぶった女性や、神学校で学ぶ子供たちなどの「異質」なシーンが繰り返し流された。そこには、米国のアフガン侵略は「正義」、タリバン政権は「悪」という構図を印象づけようとする意図が強く感じられた。
 しかし、この作品を見て、私はまったく別の印象をもった。アフガンの大地に生きる人びとがあまりに善良であり、なぜ彼らが痛めつけられなくてはならないのかという疑問がわいてくる。

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 主人公は、アフガンからカナダに亡命した女性ジャーナリスト・ナファス。カンダハールに住む妹から「自殺する」との手紙を受け取り、妹に会うためにカンダハールをめざす。映画は、その旅で出会った人びととの交流を描いたものだ。
 ナファスは、イランの難民キャンプから帰還しようとする家族にお金を払い、カンダハールに連れて行ってもらうことにした。しかし、途中で強盗に襲われる。
 つぎにナファスは、神学校を放校された男の子をガイドに雇った。2人は砂漠をひたすら歩くが、ナファスが腹痛にみまわれ、病院を訪ねることになる。その医者はソ連と闘うためにアフガンに来た米国人で、ソ連撤退後も住み着いていた。彼はナファスを赤十字のテントに連れて行く。そこには、地雷で手足を失った大勢の人びとが、義足が来るのを待っていた…。

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 この映画が撮影されたのは2000年秋で、米国による「報復」戦争前のことだ。青い空、崩れた白い土の家、どこまでも続く荒野、不思議な模様をみせる砂漠…。映像はどこまでも美しく詩的だ。
 しかし映画は、飢えや地雷で五分間に一人が死んでいくという厳しい現実を語っていく。難民キャンプでは、子供たちに人形に近づかないように教えていた。可愛い人形たちは、触れれば爆発する地雷なのだ。
 内戦を終わらせたタリバンは、欧米化したイスラム教を否定し、イスラム教の原点に戻った国づくりを行っていた。子供たちは、神学校が配給するパンで飢えをしのぎ生きている。幸運にも神学校に入れた子供たちは、ここで衣食住が保証される。女性たちは頭からブルカをかぶり、男たちはヒゲを伸ばしてターバンを巻いている。
 こうした光景は、ナファスにとっては受け入れられないものだった。ナファスは、ポケットから無造作に取り出したドルで人びとを雇おうとする。貧しい人びとはそれに飛びついてきた。
 しかし、彼らはその報酬を超えたところで、ユーモラスな人の好さを見せる。砂漠の骸骨から抜き取った指輪を売りつけようとしていた男の子は、泣きそうな顔で、指輪をナファスの妹へプレゼントしてほしいと置いていく。カンダハールまで道案内することをためらっていた男は、「恐ろしいんだろう」と言われたことで、あえて危険な旅を引き受けてしまう。
 ナファスが札ビラをきって人を動かそうとする光景を不思議に感じる人はいないかもしれない。日本でもごく日常のことだからだ。しかし、あえてこの固定観念を捨て去ってこの映画を見てもらいたい。ナファスの欧米的な価値観や言動に疑問をもってみれば、この映画は別な色彩を放ちはじめるに違いない。
 確かに女性たちのありようは、日本の封建時代を思い起こさせる。だが、内戦が続く中で、女性たちがブルカによって身を守ってきたことも現実なのだ。ナファスの妹も地雷を踏んで、足を失っている。妹が絶望的になっているのは、自分を見捨てて「いい国」に住んでいる、姉の冷たさに対する絶望に思える。

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 マフマルバフ監督は、国際社会が見捨ててきたアフガンの悲惨な現状を伝えるために映画をつくったという。また、「ハリウッド映画は富者の痛みしか描かない。ヒゲの男がネクタイの男に変わっても、アフガンの問題は解決しない」とも語っている。この映画は 世界を1つの価値観に閉じこめようとするハリウッド映画の対極にあるもので、貧者の痛みを訴えた作品といえよう。
 昨年10月の「報復」戦争以降、アフガン民衆の状況は決定的に悪化した。映画に登場した子供たちや家族たちは、寒い冬の中で、どうしているのだろうか。(U)

東京・新宿武蔵野館3(三月中旬まで上映) 各地で上映予定あり