20010915

教科書問題に思う

国って何でしょう

日本語学校教師 西岡 晴美


 「国って何でしょう」。以前こう問いかけられてから、この言葉が妙に頭から離れない。日本について、私が何気なく発した「こんな国は嫌だな」という言葉に対する、それは返しであった。
 その時私は、ろくな答えが出せず、さらに「それが分からないのであれば、嫌だと言うものではない」と穏やかに注意されてしまった。
 まだ今の状態に輪をかけて、国や政治経済に無頓着(むとんちゃく)だった頃の話だ。それから少しは知識も増えたと思うが、いまだに国とは何かという質問の答えを見いだせずにいる。
 私に言った本人はすでに忘れているだろうけれど。しかし、これがきっかけで社会のあらゆる物事を知り、理解しようと思うようになった。
 特に最近は、日本語教師という職業柄、中国や韓国の人びとと接する機会が多いため、アジアの国々と日本との関係におけるさまざまな問題に関心をもつようになった。今の私にとって最大の関心事として、教科書問題がある。「教育は洗脳だ」という意見を聞いたことがある。大げさな意見かもしれない。だが、誰かを洗脳しようとするとき、教育は使おうと思えば使える手段になり得るということだろうか。非常に恐ろしいことだと思う。
 日本はアジアに目を向け、アジアと共に生きるべきだと考える私にとって、アジア各国から強い反発を受けている「新しい歴史教科書」は、決して許せるものではない。
 正しい歴史認識をもつというが、正誤判断の基準そのものがずれてしまったら、一体何をもって正しいとするのだろうか。特に戦争問題がからんでいる場合、慎重な配慮を要することはいうまでもないことだ。私もそうだが、戦後の高度経済成長以降に生まれ育った世代の者は、戦争についてAだと教えられればAだと思うし、Bだと言われればBだと信じるしかない。
 話が若干それるが、私は戦争の跡に触れるような体験を二つもっている。一つはマレーシアの片田舎にホームステイした時のことだ。最終日前夜、年老いた男性が「昔、日本軍が来た時、日本の軍人に教えられた」と前置きして、背筋をピンと伸ばし、直立不動の姿勢で君が代と軍歌を歌ってくれた。おそらく自分の知っている唯二の日本語の歌であり、精いっぱいの心を込めた贈り物だったのだと思う。その思いに感謝しつつ、何も言えない複雑な心境になったのを覚えている。
 もう一つは、つい先日韓国旅行をした時のことだ。三八度線にある板門店ツアーに参加し、大変貴重な経験を得ることができた。高さがたった三十センチ程度のコンクリートが境界になっているだけで、仮に向こう側に人の姿を見ても、声をかけることも手を振ることも許されない。北朝鮮で、韓国の人びとは貧しく米国の援助を受けていると宣伝されないようにと、ツアー客にジーンズの着用を禁止している割に、ツアー用バスに米軍人が同乗し、施設内を案内するという現象もあったり・。しかも、歴史をさかのぼれば三八度線が生まれてしまった原因の一端を日本も担っていたらしく、それを知ってがく然とした。
 「新しい歴史教科書をつくる会」は戦争を肯定する教科書をつくった。この「新しい歴史教科書」で学んだ子供たちがもしこのような体験をしたら、どのように受け止めるだろうか。そして、今までと異なる認識をもった国民を抱えて、日本はどの方向に進むのだろう。改めて「国って何でしょう」と、問わずにはいられない。

ページの先頭へ