20010805

画集紹介 忘れられないあの日

―広島・長崎被爆者の詞画集―

発行 神奈川県原爆被災者の会


 この詞画集は、神奈川在住の被爆者が、その体験した悲惨な事実を絵と詞書(ことばがき)で表現したものだ。被爆五十五年、神奈川県原爆被災者の会結成三十五周年を記念して二〇〇〇年八月に発行された。
 絵筆を取るのは五十年ぶりという人、描きながら当時のことが思い出されて涙が止まらなかったという人、眠れない夜が続いたという人、老齢のため自分では描けないからと、下絵を送ってくれた人、亡くなった人の霊前に祈りを捧げながら描いたという人・。四十四人の被爆者が書いた詞書と絵は、原爆の悲惨さと今も残る恐ろしさを生々しく再現し、戦争で殺された人びとの無念を伝えてくれる。
 今年は被爆五十六年となるが、米国などによる核兵器の脅威はいまも世界をおおっている。被爆体験を二十一世紀に語り継ぎながら、核兵器廃絶に向けた運動の継続が求められている。

問い合わせ先 
神奈川県原爆被災者の会
電話 045?322?8689

川は死体でいっぱいに
八月六日 広島 二十一歳 軍人
 広島は市内を七つの川が流れる、静かな町だった。
 夏になると、私たちはきれいな川に飛び込んで遊び、秋になると橋の上からハゼを釣って楽しんだ。
 それがあの日、ピカの犠牲になった大人や子供の死体で埋まった。それは正に地獄絵そのものだった。
 軍隊の人が小船に乗って、竹竿で溺死(できし)体を収容していったが、数が多くてかなり時間がかかったようだ。
 不思議なことに、この日を境にして、川底に張り付くようにいっぱいいたハゼの姿が消えた。
 
材木を集めて子供を火葬に
八月九日 長崎 二十五歳 主婦
 我が子の変わり果てた姿に、思わずその場に座り込み、夢中で手を合わせました。
 しばらくして、ふと、この子は間違いなく自分の子供かと、不安な気持ちがよぎり、もう一度確かめました。
 木材を集めて火葬の準備をしましたが、どうしても焼く気にはなりません。しばらく添い寝してやり、今生(こんじょう)の別れを惜しみました。
 何の罪もない無邪気な子供たちを、このような残酷な姿にした戦争の無情を恨みました。

片眼を失った友人
八月六日 広島 十七歳 軍属
 恩師の安否をたずねるため、千田町の瓦礫(がれき)の続く中を一人で歩いていた。突然目の前に現れた人、左の眼球(めだま)がなく、大きくえぐられている、傷だらけのその姿。よく見ると一歳年上の友人だった。私は恐怖のあまり優しい言葉をかけることもできぬまま別れてしまった。その後半世紀以上、今でも忘れることができない。大切は片眼を奪った原爆への怒りを誰に訴えたらよいのだろう。

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