20010805

やっぱ好きやねん
黄土高原に友好の樹を植える旅(3)

平遥古城と「清明上河図」

ひまなぼんぺい


 植樹を終えた翌四月四日は道教の廟をいくつか見物し、綿山を下って介休市郊外の王家大院へ。ここは何代も続いた大地主の旧家だ。とてつもなく広壮な建物と、柱などに施された精妙な細工は、搾取のすさまじさを物語る。
 昼食をとった農家では、鼻ヒゲを蓄えた料理係の小柄なご主人と、天平美人と南伸坊をミックスしたような体格のよい奥さんと再会を喜び合った。彼女の飲みっぷりにつられて汾酒で乾杯を重ねるうち、中国作家協会のNさんが歌い、僕も歌い、真っ昼間の宴会となった。
 夜、平遥駅前の中都酒店というホテルに着いた。駅前旅館といった趣で、トイレやシャワーの調子が悪い。
 ホテルの薄暗いロビーで古い掛け軸などを売っていた。「清明上河図」はあるかと尋ねたところ、取り出してきて床に広げ、四百元(一元は約十五円)だと言う。安い! 
 「清明上河図」は二四・八×五二八センチの絵巻である。一九九〇年に南京城の売店で買ったものは日本円で三万円もしたが、こっちのほうが模写も精緻(せいち)でよさそうである。
 実は、こんなこともあろうかと、二日に北京の故宮を見物したとき、美術品を売ってる店に頼み込んで「清明上河図」を見せてもらい、眼力を鍛えておいたのだ。清代の有名な画家の模写本だと自慢するだけあって、さすがにしびれたが、値段はなんと十万元。
 北京で見たものの二百五十分の一の値段をめぐって値引き交渉に入る。すったもんだのあげく、二百二十元で折り合った。
 僕は「清明上河図」というものの存在を二十数年前に初めて知った。当時、東京大学生産技術研究所に留学していた上海同済大学建築学科教授の路秉傑さんを講演の依頼で訪ねたとき、「面白いでしょう」と見せてくれたのだ。それは絵巻のコピーを丹念に貼り合わせて巻いたものだった。清明節(四月五日前後)でにぎわう北宋の都を描いたもので、当時の風俗から船や建物、橋の構造までもが細かく描かれ、建築の先生にとってたまらない魅力をたたえたものであったようだ。
 北京故宮博物院に張択端という北宋の画家が描いたと伝えられる、僕たちの目に触れる模写本のもとになった作品があるそうだが、お目にかかったことはない。
 翌朝、平遥古城に向かう前に顔を出すと、掛け軸屋のおやじはカラーコピーを表装した「清明上河図」を持ち出し、「百元でどうだ」と言う。
 九七年、世界遺産に指定された平遥古城は、一三七〇年代に古い城壁を基礎に再築・拡張したもので周囲は六キロ。城壁の保存は完璧(かんぺき)で、城内には幾筋もの通りと店舗、寺廟、民家などが残って生活が営まれており、「明清時代の県の都の実物見本」といわれている。
 城内に暮らす人が使う車以外は進入禁止になっており、僕たちはホテルの前から二人乗りの人力車に乗った。
 見せてもらった民家は解放前から代々住んでいる家族の持ち物だという。世界遺産なので勝手に改築するわけにはいかなくなったが、他人に売るのは自由だそうだ。
 明清街という古い通りを歩いたが、両側には骨董(こっとう)店、漆器店、食堂、宿屋などが立ち並んで見飽きない。骨董店の店先に目立つのは毛沢東と林彪が肩を並べた絵柄の磁器の置物。ずいぶん作らせたものだと改めて感心する。漆器店では観光客向けに英語と日本語の説明書を店前に立てかけているのだが、どの店のものも「うるし」が「うゐし」となっている。店員に誤植を指摘すると、「請給老板説」(主人に言ってくれ)と笑う。
 このあと太原、上海と回って短い「樹を植える旅」を終えた僕は、最近、衛慧という七三年生まれの女性が書いた『上海ベイビー』(文春文庫)を読んだ。上海を車で走り抜けるときには想像もしなかったのだが、あの高層ビルの谷間には介休や平遥とは確実に異なる、若い世代の新しい文化が生まれているのであった。 (終わり)

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