20010705

やっぱ好きやねん
黄土高原に友好の樹を植える旅(2)

綿山に石碑が建つ

ひまなぼんぺい


 列車は四月三日の朝八時前に介休に着いた。旅行社のバスに乗り込むとそのまま綿山に向かった。山西省の省都太原からやってきたガイドは、「私の名前はカエレ」です、と笑いながら話し始めた。彼女の名前は何榮麗。日本語読みすればカエイレイだ。
 埼玉県川越の日本語学校に留学していたとかで、彼女は大の埼玉びいき。「ダサイタマともね」と口の悪いのが言うと、「いいえ」と口をとがらせ、川越の名所「喜多院」のことなどを懐かしそうに話して、「山西省と埼玉県を友好都市に決めた指導者は頭がいいと思います」と言った。
 道が狭くなるため綿山の中腹で小型のバスに乗り換え、峻険(しゅんけん)な岩肌に寄り添うように立つホテル雲風別墅園に着いた。
 別墅は別荘の意味で、小さなホテルだが、エレベーターで一階から二階に行くのに、ふつうの五階分はある。オープンしたばかりだそうで、われわれが外国人客第一号ということだった。ここで朝食をとり、介休市副市長の張復英さんからスケジュールを聞いて、まず植樹をすることになった。
 昨年の下見で決めた「中日友誼林」の候補地に着くと、スコップを手にした多くの労働者が待っていた。
 一人十本、計九十本の苗木は、中国作家協会のNさんを通じて注文しておいた。ところが、すでに穴が掘られ、そこに寝かせてある油松や杉は苗木ではなく三?四メートルはある若木である。すぐそばに小川が流れているのだが水量が少なく、また雨量も乏しいこの地域のことを考慮して、活着(かっちゃく)しやすい若木にしたのだという。
 石碑も用意してあった。副市長の張さんが、字に誤りがないか確かめてくれと言う。幅八十センチ、高さ二メートル弱の石には大きく「友誼長存」、そのわきに「日中友好東京都民協会」と書かれてあるではないか。校正をすませたあとで刻字し、台座をつけてここに建ててくれるのだ。
 僕は二十五年間、日中友好東京都民協会に所属して日中友好運動にかかわってきた。その名前の入った石碑が初めて中国の地に建つのだ。二十五年間の運動の一つの結果がここに長く残るのだと思うと感慨深い。
 「もう都民協会をやめるわけにはいかなくなったな」とSさんが言う。
 深い感慨の割には、植樹はあっけないほど簡単だった。僕たちを待っていた労働者が強力な味方で、彼らが寝かせてあった木を立て、僕らはスコップで穴を埋め、踏み固めて水をかける。それでも、九十本の木を植え終わると、百メートルくらいの濃い緑の帯ができ、壮観だった。
 もう十年くらい前になるだろうか、夜中に家に帰り、テレビをつけると、鉛筆かクレヨンでかいたような純朴なタッチのアニメをやっていた。荒れ地にドングリを埋め、木を植え続けて、しまいには大森林にしてしまう羊飼いの話で、とても感動した。調べてみるとフレデリック・バックというカナダのアニメ作家の「木を植えた男」という作品だった。
 この羊飼いのひたむきさに僕たちはとても及ばないが、それでも毎年綿山を訪れて現地の人といっしょに木を植え続け、それが世代を超えた活動になれば、「友誼長存」の碑文もしっかりした意味をもってくるのではなかろうか。

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