20010515

『教育』なき日本の教育

競争社会が人間性ゆがめる

高校教員 前川 隆雄


 かなり以前から、わが国の教育の欠陥を指摘して「学校は死んだ」などという書物が出版されたことがありましたが、こんにちほど教育の崩壊が話題になった時代は過去にはありません。軍国主義下の戦前においてさえ、良かれ悪しかれ、わが国の教育には一定の基準と目標というものがありました。
 こんにち、わが国の教育には「教育基本法」という、立派な教育を実行する上での経典たるものが存在するにもかかわらず、それは形だけの飾りに過ぎません。実際の教育は恐ろしいほどに教育とは縁もゆかりもない代物に変質してしまい、その度合いはますます強まりつつあります。自己中心、身勝手、人に対する思いやりの欠如、周囲に対する敵対心、弱い者いじめなど、あげたら際限ない危機的現象が水面下を支配し、時々表面に奇妙な形で踊り出てきています。
 子供たちが一様に、程度の差こそあれ、親をはじめ目上の者に反抗的になりつつあります。注意をされて「はい、すみません」と素直に謝る子供の数は日に日に減少し、貴重な存在になってしまいました。
 子供たちは生まれつき自己中心的で、思いやりがなく、礼儀作法を知らず、弱い者をいじめ、理由なくムカつく子供だったのでしょうか。そんなことはありません。すべて社会と教育がつくりだした産物です。自然界の法則にも「一定の原因は一定の結果を有する」とある通り、現状の子供たちの姿は、「一定の原因」から生じた「一定の結果」に過ぎません。

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 教育者の結構多くの人びとが「教育の失敗の主な原因は日教組にある」と言うのを耳にします。これを聞くと「これほどの人物がこんな短絡的な考えしかできないのか」と、つくづくわが国の知性の貧困さに悲しくなります。
 「親が悪い。教師が悪い」と言うのは一面的で、極めて局部的な見方です。それはちょうど、自殺をした人を「あの人は運が悪かった」と言っている人と同じではありませんか。「運が悪かった」と片づけるのは、本質を覆い隠し、問題を打ち切ってしまう態度で、問題解決にならない発想です。原因の究明はもっと掘り下げて本質を引きずり出さねばなりません。根はもっと深い、日本社会の構造そのものにあります。
 日本の教育は、根本的なところで、日本社会を構成している巨大資本を維持するための砦(とりで)として出発している点を見落としては語れません。保育所から始まり幼稚園、小学校、中学校、高校、予備校、各種塾、専門学校、大学、大学院に至るまで、巨大資本の構想に基づいて、国の教育行政機関である文部省(現在は文部科学省)がその構想を具体化し、実現するためにつくりあげた特別な機関が日本の教育機関です。「教育基本法」に示される教育の理想は単なる能書きに過ぎず、「日本国民を巨大資本の思惑にそって誘導する精巧な洗脳機関」こそ日本の教育の本質であり、正確な定義でもあります。

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 したがって、教育の内容は保育所から大学院にいたるまで終始一貫して「競争」を根本においています。巨大資本の狙いは富の独占であり、王政、貴族社会のそれと寸分変わらぬ国家の絶対的な支配です。変わるところは、武力で支配するかわりに、もっと巧妙な資本を制度的に使って支配している点です。巨大資本がつくりあげた制度への国民の絶対的な服従、つまり、批判を排して従順さを身につけさせ、ロボットのように巨大資本に奉仕する人間の育成です。
 教育内容の中心は一貫して押し付け的なもので、創造的、発展的なものは一切否定しています。教師は文部省の選定した教科書に基づいて、一方的に「詰め込む」教育が中心となります。生徒の自由な発言、疑問は巧みに消し去られ、試験の内容などもあらかじめ定められた答えの中から選択する以外にない、極めて偏狭的なものになっています。
 生命力を豊富に備えた子供たちが、この無機質で砂をかむような教育に反発したり、興味をなくすのは当然のことであり、生命活動を否定されたことへの拒否反応であり、自然的な、生きるための本能のなせる業です。本能に逆らい従順にロボット化されていく者こそ、異質な存在といえるでしょう。
 本来、教育は生命活動の解放であり、自由かつ弾力的に、それぞれの持つ個性を発揮させ、それを発展させ、精神的にも物質的にも豊かな社会の発展に役立つものです。
 弱き者に手を差し伸べ、子供や老人をいたわり保護し、自然の恵みを受けて生まれしすべての者が共生できる社会を堅持することに力を尽くせる、動物にはない高い人間性を有した人間の形成にあります。
 競争は私的欲望のために他を圧殺するゆがんだ人間をつくり出し、最終的には社会を混乱に陥れる結果を招くでしょう。現実を見れば一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。