20010425

権利がつぎつぎ奪われる
かつてのようにデモを

労働者は不安を募らせている

機械工場労働者 大滝 勝一


 高校を卒業してこの会社に入社して、早いもので三十年になります。当時は年間で二百人近い新規採用があり、東北や関西など全国各地から集まってきました。一年間は「養成学校」で訓練を受けますが、午前中は学科を中心に午後は簡単な機械を使って実習という毎日でした。
 地方でのんびりと暮らしていた私は、同じ寮生が「関西弁」のケンカ口調でまくし立ててくるのに面食らうこともありました。それでも、同じ寮の仲間とスキー、キャンプなどに出かけ、一年間は無事に過ごし現場へ配属となりました。
 普通高校を卒業した私が、機械工として何とかこなせるようになった頃、先輩に声をかけられて組合活動にも首を突っこむようになりました。工場には約五千人の労働者がおり、活発な組合活動を支えていました。春闘時には地区(二百〜三百人単位)毎に集会を開いたり、青対部独自の決起集会や構内デモで気勢を上げ、労働者の力を会社側に誇示していました。
 当時も会社は、組合活動家に対して査定で差別していましたが、出世抜きでがんばっていた先輩に声をかけられ、三里塚闘争や学習会に参加する中で、社会主義にひかれていきました。
 職場にはそうした活動家が二〜三人いて、横の連絡体制もありました。職場では職制に反抗したり、政治闘争に参加したりで、いつしか私も「活動家」らしくなっていきました。楽しい毎日でしたが、活動家仲間での会話に出てくる「カンケン」(官憲)の意味が分からずとまどったこともありました。
 高度成長の中で、労働者への「おこぼれ」もそこそこあり、会社への不満は次第に薄まってきました。組合執行部もストライキを口にしなくなり、「企業の繁栄が労働者の生活の安定」と、組合機関紙で宣伝するようになりました。職場で起こる問題を取りあげて、組合役員を追及したりしましたが「不発」に終わり、活発な職場会も参加者が少なくなりました。
 職場の仲間は、会社も組合も信頼しない、仲間の団結にも関心を寄せず、もくもくと仕事をこなしています。

*       *

 そんな職場ですが、「競争の原理」が吹き荒れ、組合がかち取ってきた権利がつぎつぎに奪われつつあります。年金の切り下げ、交代勤務手当が改悪(将来的には五万円のカット)されました。
 さらに、定年延長に伴う退職金の支払い方法が大幅に変更されました。六十五歳まで働く人は、五十六歳から賃金が一〇〜一五%切り下げられ、六十歳からは三分の一に引き下げられ、それらを「退職金の前払い」で穴埋めするという巧妙なやり方で労働者をコキ使おうとしています。当然にも、退職時に手にする退職金は大幅に減らされてしまいます。ですから、今年度の定年延長希望者は一〇数%といわれています。
 分社化、合併会社の設立で出向制度も改悪されました。これまでの出向制度は、労働条件はそのままで「働く場所の変更」だけでした。今度は、「企業間競争」に勝ち抜くため、出向社員は同業他社の賃金水準に切り下げるようになりました。
 労働条件の切り下げを認めた組合は「業績が上がれば賃金も上がる」と会社といっしょになって現場で説明しています。出向先はいろいろありますが、「業績が上がる」職場など本当にあるのか、労働者は不安を募らせ、しかし光を求めています。