20010415

アジアの街角から(4)

シンガポールで見た「国際化」

海援隊(海外展開企業等を支援するネットワーク組織隊)
牟田口 雄彦


 日本は、「国際化」という言葉が好きである。好きであるといっても、現実が「国際化」しているわけではない。本当に「国際化」している国では、事立てて取り上げなくてもよいはずなのである。「国際化」を取り上げる国は、真に「国際化」していない例が多い。
 そういえば、神奈川県にも湘南国際村という地名があったと思うが、そこを通ってもどう見ても国際化しているとは思えない。一番違う点は、湘南国際村だけでなく、日本の町には、多様な宗教寺院がないことである。宗教について日本人に聞くと、中には、私は無神論者であると答える人がいる。しかし、実は、よく聞くと無関神(心)論者であることがわかる。 アジアや世界の街角で、無関心論者は尊敬を受けないことは事実である。アジアの人びとの日常的な生きがいや生き方の大きな柱が宗教であり、そのことに関心をもたないこと自体が信じられないことなのである。
 シンガポールには、実にさまざまな宗教の寺院がある。回教、ヒンズー教、キリスト教、仏教などとたくさんの寺院があり、共存している。それぞれの寺院を回ってみると、本当に厳かに信者が祈りをささげている。そして、それぞれが、お互いの信じる宗教を認め合っている。
 現在でも、インドとパキスタン、そして、イスラエルとアラブ、過去には十字軍の聖戦と宗教が生きがいではなく、殺しがいになる例も多かったが、ここシンガポールでは、政策のうまさもあり、うまく共存できているようである。
 シンガポールでは、日本人が不思議がられることが多いという。「確か、あの日本人はキリスト教だと聞いていたが、葬式の時は仏教だった」という、揶揄(やゆ)するような話をよく耳にする。
 日本人は、幸か不幸か、今まで多民族や多宗教に濃密に接する機会が少なかったが、これからは、そうはいかない。相手の宗教を知ることなくして、相互共存はあり得ない。その大きなものが、宗教に特有の食物規定であり、牛、豚などを神の使いとして聖なるものとすること、あるいは、お酒を禁じるものなどがある。
 知り合いのマレー系シンガポール人の秘書と夕食を共にする機会があったが、必死になって彼女は、レストランで宗教(回教)の許す食べ物を探していた。われわれ日本人のような、宗教観では考えられないことだ。知人に聞くと彼女はよほどではないと夜の付き合いはしないそうである。 シンガポールで多数の宗教寺院を見ていると、国際化とは多様な宗教を認め合うことが、大きな要素であると感じる。日本人は、宗教戦争というほど激しいものでなくとも、他宗教との接触が少なかった。そのことが日本の大きなプラス面でもあったが、逆に今、多様な才能の持ち主を日本に迎え入れる時代に、大きな障害になりつつあることを認識することができる。