20010305

やっぱ好きやねん

留学してきた石売り娘(承中)

ひまなぼんぺい


 謝蘭芳から「明日のCA929 便で成田に行きます」という電話が入ったのが十月五日の夜。その前夜、友人の長島正弘君を見舞ったが危篤状態で言葉を交わすこともかなわず、翌朝病院を訪れると彼はすでに亡くなっていた。かけがえのない友の唐突な死に、やくざなことでも考えていたのだろう、そのときに蘭芳から電話が入ったのだった。
 六日、蘭芳を桜井さんと迎え、東京に戻ったのが午後四時。三人で軽く食事をすませ、僕は立川で開かれていたある集会に参加した。そのあとで数人の仲間と長島君に別れのあいさつをしに高尾に行った。
 ガンに侵された彼の遺体を前にして、丸々と太って新しい生活に目を輝かせる昼間会ったばかりの蘭芳が、生命の塊のように思えた。
 千葉の成田と東京のはてを往復し、両極端の複雑な思いにとらわれた実に長い一日だった。

*       *       *

 蘭芳はビザを待つ間、今はふるさとを遠く離れ甘粛省の西のはずれに近い玉門のホップ農場で働いている両親に会いに行ったそうだ。ホップは中国でピーチウホア(ビールの花)と、なかなかきれいな名前で呼ばれる。
 蘭芳は十月十日に早稲田にある日本語学校に入学し、朱武平さんの妹の威平さんと同居することになった。
 蘭州で日本語を独習していた彼女は、日本語学校の授業のテンポののろさにいら立ち、九カ月かけて学ぶ五十課の教科書を二カ月で自習してしまった。だから、毎日の授業は復習のようなものだという。
 彼女は午後のクラスなので、アルバイトのない日の午前中と夜はアパートの近くにある別の日本語学校の食堂で勉強している。そこは広くて静かで、アジア各国から来た留学生たちが熱心に自習しており、とても刺激になるそうだ。
 夜、勉強を終えると、その学校にある十分百円のコインシャワーを浴びて帰る。
 銭湯には、江戸川の鴫原(しぎはら)さん宅に泊まりに行ったとき、二度だけおばあちゃんが連れていってくれた。
 「とーってもいい気持ち。ずーっと入っていたかった」と言う。
 彼女は家計簿をつけ、部屋代を含めても「月に四万円を超えない」切り詰めた生活をしている。
 それでも、春節(中国の正月。今年は一月二十四日だった)前の日曜日、威平さんと蘭芳が桜井さんと僕を夕食に招いてくれた。
 出された料理は豚足をしょうゆで煮込んだものとチウミエンピエン。
 チウミエンピエンは甘粛省の人がよくつくる、日本でいえば具のたくさん入った「すいとん」のような料理だ。小麦粉をこねてから、ぬれぶきんをかぶせて少しねかせ、棒状にのばす。それを指先で薄く花びら状にちぎって麺(めん)を作る。この麺をニンジンやピーマンなど数種類の野菜を軽くいためたものといっしょに煮込む。
 豚足も麺も味つけはなかなかのものだった。僕たちはビールとワインを持参したのだが、彼女たちがふだん使うコップしかなく、同時に乾杯できないのが残念であった。(つづく)