20010225

やっぱ好きやねん

留学してきた石売り娘(中)

ひまなぼんぺい


 「ウー、アー、……」
 六月十五日、事務所の留守電に意味不明の録音が残されていた。いやな予感がした。
 ほどなく千葉大学に留学中の朱武平さんから電話が入った。彼女も甘粛省の出身で、蘭芳の留学を手伝ってくれていた。
 「蘭芳から電話があって、北京の日本大使館に行ったんだけど、面接されちゃって、学費や生活費のことをうまく答えられなくてビザが出なかったんだって」 僕はすぐに北京の日本大使館の領事部に電話をした。幸い蘭芳の面接を担当した人
と話ができたが、「発給を拒否したわけではない。本庁で再審査するよう書類を戻したのだ」と言うばかりで、再審査になった理由は教えてくれない。
 蘭芳は北京郊外の知人宅に身を寄せ、じりじりした気持ちで朗報を待った。二十六日になって彼女から電話が入った。ビザはまだ出ないという。
 再び大使館の担当者に電話して、いったん蘭州に戻って連絡を待つよう彼女への伝言を頼んだ。
 七月中旬、北京に行く機会があり、担当者に電話したが、「こっちはひたすら返事を待つだけなので、本庁を追ってみてください」と言う。
 帰国後、「謝蘭芳留学基金」の実務を担当した桜井さんと相談し、ある人の力を借りることにした。この人の調べで、蘭芳が面接の際「生活費や学費はアルバイトで稼ぎます」と答え、再審査となったことがわかった。
 朱武平さんが「桜井さんたちはみんな優しくて親切だけど、日本に来たら甘えないで、自立を心がけなさい」と蘭芳に書いたことがあって、「アルバイトで稼ぐ」なんて健気(けなげ)な決意を示したのに違いない。
 僕たちもまさか面接があるとは思いもせず、基金があるから当面の生活費や学費の心配はいらないことを彼女に説明していなかったのだ。これが失敗だった。
 外務省と法務省に電話をすると、北京から戻された書類はまだ外務省にあった。すぐにビザ発給の要請文とこの間の経過を詳細に記した説明資料を作って提出した。
 七月末に再び問い合わせると、書類はすでに東京入管に回っていた。ところが入管に尋ねても、再審査の進み具合や担当官の名前などは教えてくれず、打つ手がない。
 やむなく、「再審査にあたって、不明な点や改めて確認したいことが出てくるはずなので、そのときはぜひ私に問い合わせるよう担当者に伝えてほしい」と頼んだ。
 十日後、入管の担当官から電話があったので、謝蘭芳の件を尋ねたが、外務省に提出した説明資料などは一切届いていないのである。そこで改めて資料をつくり、以前ここに書いた「石売り娘」のコピーなどを持って、その担当官と面談をした。
 若い担当官は、この基金にかかわった日中友好東京都民協会の設立目的や活動内容、基金の今後の見通しなどについて細かく熱心に質問した。
 面談を終え、彼がこれらの書類をきちんと読んでくれさえしたら再審査はパスすると確信した。案の定、九月十九日夜、北京の日本大使館から甘粛省青年旅行社にビザが下りたという連絡が入ったのである。(つづく)