20010215

やっぱ好きやねん

留学してきた石売り娘(上)

ひまなぼんぺい


 昨年の十月六日午後二時二十分、黄河上流の寒村に育った石売り娘こと謝蘭芳は成田空港到着ゲートを出て、日本留学の第一歩をしるした。
 彼女との出会いや、蘭州の園芸学校に進学した彼女が九七年の夏休みに江戸川在住の鴫原(しぎはら)さんの招きで東京を訪れたことについては以前ここに書いたが、僕たちが彼女と出会ってからちょうど十年後に留学が実現したのである。

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 彼女が育った村には石窟群で有名な炳霊寺(へいれいじ)があり、そこにやってくる観光客相手に小学校に上がったころから石を売っていた。水につけると青くなる蛍石だ。近所の山で掘ってくる。
 九七年の夏、このまま残って日本語学校に入りたいと言い出した謝蘭芳に、観光ビザでの来日であること、高校を卒業していないと日本の大学へ入学できないことを説明し、高校を卒業したら留学できるように協力するからと約束して帰国させた経過もあって、九八年の夏に彼女の留学準備を始めた。
 いくつかの日本語学校に行って調べたところ、従来の保証人制度は廃止され、以下のいずれかの条件がない限り留学できないことがわかった。留学費用を志願者の親族が海外から送金する場合、志願者本人が支弁する場合、日本にいる親族が支弁する場合のいずれかである。法務省は規制緩和の一環と説明するが、彼女のように日本に身内がいず、両親からの仕送りなど望むべくもない人間には事実上日本留学の道は閉ざされていたのである。
 僕たちには向学心に燃える彼女の夢をこわしたくないという思いと同時に、僕たちと知り合ったがために高校の夏休みに一カ月も日本に来ることになり、彼女の人生を狂わせてしまったことについての責任もあった。彼女を見る周囲の目も違ってきて、園芸学校を卒業してもどこかに就職して普通に暮らすことは困難となり、留学以外に道はなさそうだった。
 あれこれ考えたすえ、数人の仲間が発起人になって謝蘭芳留学基金をつくり、それで彼女の留学生活を保障することにした。多数の日本人が彼女の留学を支援するために基金に協力したという事実をもって入管当局に迫ってみようというわけだ。基金も集まり始め、彼女は九九年八月に園芸学校を卒業したが、当初予定した日本語学校の入学基準が厳しくて受け付けを拒否されたため、改めて別の日本語学校に入学申請をすることにした。そうこうして日が過ぎるうち、在留資格を出す入管の許可条件が再び変わり、日本語学校が保証する形で留学できることになった。
 卒業後、彼女は旅行社や花屋でアルバイトをしながら暮らしていたが、いわば住所不定で、こまごました連絡や入学に必要な書類をそろえるのが一苦労だった。僕たちは蘭州にある甘粛省青年旅行社の社長に頼み、その会社を彼女との連絡ポイントにしてもらった。こちらからの手紙やファクスが届いたら、旅行社から彼女のポケベルに連絡して彼女が旅行社に取りに行くといった具合である。実務を担当した仲間はそれこそてんてこ舞いだった。
 そして昨年五月二十七日、入管から彼女に対する在留資格認定証が出た。基金も百万円をはるかに超えていた。さっそく日本語学校に入学金、授業料などを払い、青年旅行社に彼女の渡航費用とこの間にかかったファクスや電話代を送金した。これですべては終わり、あとは彼女の来日を待つだけとなった……はずであったのだが、思いもよらぬ波乱が起きたのである。(つづく)